2005年1月15日

この国の低周波音被害者はどうなるのか

保団連公害環境対策部員 和歌山県保険医協会顧問    汐見 文隆

[月刊保団連投稿原稿] 2005年1月17日

 環境省が2004年6月22日発表した「低周波音問題対応の手引書」の撤廃を要望して、全国保険医団体連合会は同年11月17日、環境省で大気生活環境室と交渉した。その概略は同年12月5日付けの全国保険医新聞で報告されているが、1時間の設定時間は余りに短く、「手引書」の誤りの本質の追求以前に瀬川大気生活環境室長の繰り返す時間切れ宣言で終了せざるを得なかった。

 はじめに

 今回の環境省との交渉には5人の低周波音被害者の参加があった。その5人の被害者の訴えのやり取りが行われているうちにたちまち時間が過ぎてしまって、目標とする手引書の”参照値”の誤りについての論議にほとんど及ぶことなく交渉は終結した。
 今年になって、ある低周波音被害者が環境省に電話したところ、その訴えに触れられた低周波音被害に関する私の主張は「日本国中で汐見だけの意見だ」ということで、相手にしようとしなかったという。
 日本一の栄光と喜ぶわけにはいかない。あの時同行した少なくも5人の低周波音被害者は、私と同意見であったはずである。というよりも、彼等低周波音被害者の現実から私の考えが出発しているのである。何故私一人の主張ということになって、同行した5人の被害者の存在、そしてその訴えは、数の中にも入らないのか。さらに、私がこれまで接触してきた低周波音被害者だけでも、数十人を下らない。その気持ちを代弁することがどうして1個人だけの意見ということにされてしまうのか。
 官僚の非人間性が思い知らされる。

利根川 進(MIT)教授は語る

 自然科学分野でノーベル賞を受賞した日本人は9人いるが、医学生理学賞は利根川氏だけである。日本の誇りと言いたいけれども、彼が留学以来40年余の海外生活と聞けば、それは大きく割引されなければならない。むしろ、日本国内にいては駄目だということの証明かも知れない。
 本年1月4日、毎日新聞「戦後60年の節目に語る」で利根川教授はこう指摘された。 「もう一つ指摘しておきたいのは、日本は文科系と理科系が米国以上に乗離している点です。日本の国は官僚が運営しているが、その多くは、科学を理解しない文科系人間だ。科学技術なしに語れない21世紀に、文系出身者による変な行政がはびこっている。MIT(マサチューセッツ工科大学)の経済学部や社会科学の学生が生物学を必須科目として育っているように、日本も科学のことがわかる文科系人間を育ててほしいですね。」

 この国の官僚は

 瀬川大気生活環境室長は「手引書」が発表された後に室長に就任された方である。察するところ彼の使命感は、一旦発表された環境省の「手引書」を批判から守ることにあり、手引書の誤りを正して環境省を守る、さらには国民を守るなどという崇高な使命感など毛頭感じられなかった。
 1984年12月、環境省(当時環境庁)は「一般環境中に存在するレベルの低周波空気振動では人体に及ぼす影響を証明しうるデータは得られなかった」と発表したのがケチのつき初めである。低周波音被害は元々一般環境などとは関係がない。
 一旦は切り捨てたものの、その後も低周波音被害の訴えは止む事はなかった。2000年10月、「低周波音の測定に関するマニュアル」を発表したのは、藤田室長であった。それ以後何か悪いことでもしたかのように、室長はくるくる変わり、昨年6月には手引書を発表するやいなや、責任を逃れるように、前室長から現室長へと交替した。
 現室長の経歴は知らないが、まあ利根川教授の指摘は当っている気がする。とすれば、こう短期間の交替では低周波音被害のことを理解するのは無理だろうと同情しないわけではないが、同情して済む問題ではない。
 その間、藤田室長の善意から、今回の瀬川室長の冷淡な態度まで、随分低周波音被害に対する官僚の対応が変化してきたと感じる。小泉政治の冷酷さがここまで乗り移ってきたのかと、暗然たる想いである。

 文科系と理科系と

 文科系と理科系と、どう違うのだろうか。つたない頭で慣れないことを考えてみた。
 どうも文科系の思索には、絶対的な真理と言われるような結論はなかなかないのではないか。そこでやむを得ず多数決で正否を決めることになるのではないか。
 汐見の考えは、日本で一人だけ、つまり、1人対1億数千万人。問題にならない。
 それに対し理科系には絶対的な真理があり得る。後に間違いであったと訂正されることもないわけではないが、自然科学的な真実ば多数決で決められるものではない。
 コペルニクスの地動説、一人だけ。他は世界中天動説。しかし、コペルニクスの勝ち。つまり、理科系に多数派は無意味。日本で一人だけ、光栄の至りということになる。
 多勢に無勢ではない。真実を捉えたかどうかの問題である。それが文科系の人には理解できないらしい。官僚らしい手際で、見事に牙城を守った積もりのようだ。
 手引書の基本的な誤りは、被害者群と正常者群と実験では差が出ていないのに、その実験値を使って被害者と正常者を弁別するという、およそ自然科学の世界では考えられない手品のような離れ業を演じており、それを指摘しても見向きもしないという独善さば、小泉流と称するにふさわしいものがある。

 メディアもまた

 昨年11月17日の折衝では、環境省を追い出された後、次に環境省内の記者クラブに移った。相手は朝日、毎日、読売、共同通信など、大手メディアの記者たちである。
 低周波音問題の要点を説明し、複数の資料を渡し、質問に応答した。興味を示して熱心に質問してくれる記者もいた。さらに後日には追加資料も送った。しかし、今年1月半ばまで報道は全くない。
 環境省の記者クラブでは、環境省の意向に反して科学的真実に迫るということば、もともと期待する方が無理ではないかという危惧が現実のものになった。
 このままではほとんどの低周波音被害者が切り捨てられるという焦燥感の中にある。
 理科系より文科系、保団連より環境省か。

 石川旺上智大学文学部新聞学科教員の記事
 「言葉をもてあそぶ政治 マスメディアが正当化」(「ふえみん」2005年1月1日)という記事が目についた。
 「1990年代は経済的に空白期であったと言われている。しかし、今になって振り返ってみると、この時期にさらに深刻であったのは政治の空洞化であり、それと一体化したメディアの空洞化ではなかったか。」
 「筆者は、主流の大手メディア以外のメディア、市民的な立場を代表し、権力の階層構造に絡めとられていないメディアを自ら見いだし、その情報を活用するしかないと考えている。」
  月刊保団連、全国保険医新聞、各都道府県の保険医新聞、ガンバレである。

 おわりに

 今回、はるばる上京しての環境省との折衝を通じて深く感ずるのは、この国はここまで悪くなったのかという驚きである。
 確かに低周波音被害は三位一体の厄介物と言える。
 @原因が低周波音という聞こえない、あるいは聞き取りにくい昔(空気振動)である。
 A被害が不定愁訴という、臨床的に客観的な証明のできない訴えである。
 Bそこで低周波音の測定データが診断に欠かせないことになる。しかし、それは自治体にとっては不慣れで厄介な測定である。
 憲法第13条「個人の尊重」とか、第25条「生存権」より、環境省の「手引書」に記載されたインチキ基準“参照値”で切り捨てることができたらどんなに楽かという気持ちが透けて見える。

 最近東北地方のある県で、隣家の灯油式給湯ボイラーが原因と思われる低周波音による被害者と覚しき男性が、「統合失調症」の診断で精神病院に措置入院させられたという連絡を受けた。本人は自分の被害は「汐見先生の本に書かれた低周波音の被害の通りである」と頑強に主張したということであるが、行政にも精神科医にも聞き入れられず、行政は低周波音の測定も実施せずに、県知事の措置入院決定を行った。
 既に入院1カ月を越え、何か知らないが、ずっと服薬を続けさせられているという。
 これで一件落着ということか。

 理解されにくい低周波音被害者は、今後どうなって行くのであろうか。

 折しも2001年1月30日放送のNHKの従軍慰安婦に関する特集番組に対して、政治介入があったという報道がしきりである。検閲の復活ではないのかと。

 もはや戦後ではない。戦前である。