国の公害等調整委員会は公害を理解していない
2003年4月
医師 汐見 文隆
はじめに
平成15年3月31日、即ち平成14年度最終日に、国の公害等調整委員会が「横浜市における振動・低周波音被害責任裁定申請事件」について裁定を行った。
平成11年8月、横浜市地下鉄(横浜市高速鉄道1号線)の戸塚駅−湘南台駅区間の運行開始に伴い、民有地の直下約18メートルを通行することになり、その上に住むH家に振動・低周波音被害が発生したという訴えである。
その裁定の「事実及び理由」を読むと、公害等調整委員会は公害というものの本質を全く理解していないという驚くべき状況が明らかになった。それは、本件の低周波音公害に対する判断の誤りにおいてさらに明白となっている。
公害に苦しむ国民を救済すべき国の機関が公害を理解していないという本末転倒の事態が存在するとすれば、水俣病以来数々の公害に対する国の無理解に苦しんできた国民に、今後とも明るい未来が約束されていないことになる。
結果から原因へ
自然科学は因果律に基づく。原因があって結果がある。原因なくして結果はない。その原因から結果を追求する本流が理工学系の主たる立場とすれば、同じ自然科学でも医学、特に臨床医学は、結果を与えられてそこから原因を追求する、逆流ともいうべき学問である。公害もまた結果を与えられて原因を求める立場である。
この違いによって、理工学と医学・公害とは、その追求の方法論が異なる。もし医学が原因から追求すれば、混乱が相次いで医療は崩壊する。公害もまた然りである。
現在、新型肺炎(SARS・重症急性呼吸器症候群)の追求が行われ新種のコロナウイルスが原因ではないかと疑われている。新しい感染と疾患の様相(結果)を見つめることが、臨床医学研究の出発点となっており、そこから病原体(原因)の追求へと基礎医学や理工学分野が協力することになる。これが本来の医療の姿であり、仮にその原因論について論争があろうとも、結果(疾患)の存在を否定することば考えられない。
ところが同じく結果から出発する公害の歴史はそれとは異なっている。過去、水俣病、イタイイタイ病、大気汚染による疾患など、全て新しい疾患の様相(結果)の発見から出発している。しかし、その原因についての判断には、自然科学以外の政治や経済が強力に介入してその原因を否定し、あるいはねじ曲げてきた。
水俣病については、昭和31年、水俣市郊外に住む6歳の女の子を診察した野田医師、細川病院長に始まり、現地に「水俣奇病対策委員会」がつくられて、水俣病の存在が公式に確認された。そして昭和34年に至り、熊本大学の精力的な研究で「有機水銀説」が確立した。ところが「企業に都合の悪い“田舎大学の説”など信用できるか」と、現地を遠く離れた東京を中心にイチヤモンが続き、厚生省が正式にこれを認めたのは昭和43年のことであった。その後も被害者救済について長く混乱が続いた。
イタイイタイ病は、昭和31〜32年頃、富山県神通川流域の一定地域に発生したカドミウムの慢性中毒である。地元の開業医萩野昇医師がこれを発見し追求したが、行政や化学者たちに相手にされず一時はやけくそになったというが、小林純岡山大学教授(化学)の協力を得て、苦労の末に公害病として認められるに至った。現場にいた臨床医が実態を把握し、それを一人の化学者が支援した結果である。決してカドミウムをよく知る一般の化学者が解明したのではない。彼等はむしろ萩野医師を苦しめる側に回り、イタイイタイ病が公害病として認められたのは、発見から10年以上後のことであった。
四日市ぜん息は、昭和35年頃、三重県四日市市の石油コンビナートで多発し始めた。その原因を工場からの二酸化硫黄としたのはやはり現地の三重大学吉田克己教授(公衆衛生学)らの業績であったが、その公害裁判も大変苦労されたようである。
ここで、少し脱線して、自然科学ではないが法文系向きに犯罪について考えてみる。犯罪もまた結果が与えられて原因(犯人)を追求する。その手段は長足に進歩したはずである。たとえば昔は血液型で判断していたのが、DNA鑑定が普及した。これだけでも犯人の特定に大きな利点がもたらされたはずである.ところが、犯人の検挙率は逆に著明に低下している。昔は名刑事がいた。今は迷刑事の時代になったと、昔を懐かしむ声を聞く。名刑事とは何か。それは徹底した現場主義であるという。
結果から考えるとは現場主義ということである。医学では患者、公害では被害者について、詳細に、且つ徹底的にその訴え(結果)を聴取し、理解し、それを起点として原因を思索し検討するということである。
これに対して原因から考える理工学の立場とは、実験室主義である。その実験過程では結果の正確な把握は必ずしも必要ではない。そのため結果を十分理解することなく、実験成績を至上のものと考える誤りに陥りかねない。
問題は原因と結果が一致しない時である。その時、原因主義・実験室主義派は原因側、実験結果に軍配を上げたがる。しかし、結果主義・現場主義派はあくまでその結果・現場を固守して、原因主義・実験室主義を否定する。それは医療、公害の原点である。
公害を扱う公害等調整委貝会は、あくまで結果主義・現場主義の立場でなければならない。それが原因主義・実験室主義の立場を取れば、それは自己否定以外の何物でもない。
低周波音公害の特殊性
先に挙げた水俣病、イタイイタイ病、四日市ぜん息などは原因が化学物質であり、結果は器質的疾患である。身体異常について客観的な証明が可能で、医療の門外漢にも理解されやすい。それでも難行苦行の歴史をたどっている。
ところが低周波音公害は物理的な原因であり、化学的な原因ではない。物質的な証拠はなく、正確な測定データがなければ原因の正体を捉えることばできない。その上低周波音公害の主体をなす低周波音症候群は慢性の疾患であり、疾病像は自律神経失調症に類似した不定愁訴である。機能的疾患であり、客観的な所見を持たない。つまり原因も結果も分かりにくく、門外漢には理解されにくい。
低周波音も騒音も同じ空気振動であるから、似たようなものであろうと誰でも考えやすいが、両者は全く異なっている。
@低周波音症候群は周波数が10ヘルツ〜40ヘルツの間に卓越周波数(ピーク)を持ち、40ヘルツ超の周波数では騒音被害である。
A低周波音症候群は身体被害(不定愁訴)、騒音被害は生活妨害が主体である。
B低周波音症候群は被害発現までに時間(潜伏期)が必要なことが多く、時には数年後に発症することもある。騒音被害は即時発生である。
C騒音被害は「やかましい」で表現できるが、低周波音被害には適当な言葉がない。しかし、多くは青も聞こえるため使い慣れた「音が聞こえる」という表現を使用する。ところが、外部の行政や測定者には、音が聞こえない。あるいはこんな小さな音なのにと理解されず、しつこく訴えると、ウソツキや精神病者扱いにされることがある。
D低周波音症候群は個人差が著しく、同じ現場で生活しながら、非常に苦しむ人と全くどうもない人とある。そのため“感覚異常者”と表現されたこともある。騒音被害では、聴覚障害者は別にして個人差が少ない。
E低周波音環境に生活し続けると、だんだん苦しさがひどくなる(鋭敏化)。さらには「低周波音過敏症」というべき状況となる。騒音被害はむしろ慣れて楽になって行く。
F低周波音症候群は音により緩和される(マスキング)。ほとんどの被害者はテレビやCDなどの音で苦しさを紛らわせて生活する工夫を自得している。
G低周波音症候群は対策が困難で、防音壁は逆効果である。戸や窓は閉めたら苦しくなる。騒音被害はもちろん防音壁、二重サッシ、耳栓有効で、閉めたら楽になる。
このように低周波音と騒音とは被害の様相が全く異なるので、同一のメカニズムで脳に作用していると考えるわけにはいかない。ではどう考えればよいか。何故40ヘルツ超が騒音と低同波音の境界になっているのか。
脳は豆腐のように軟らかいという。そこでこれを頑丈な頭蓋骨で包んで保護している。ところが、丈夫な頭蓋骨は遮音壁の働きをする。そのままでは聞こえないから、頭蓋骨にトンネルを穿ち、耳介で音を集めてこのトンネルを通じて内耳の蛸牛に伝えるという工夫が施されている。
低い周波数の空気振動は隔壁を貫通する力が強いことは、かねがね理工学系の学者・研究者が明らかにしているところである。これは物理学的法則であるから万物に通用する。人工の防音壁だけに通用して、人体には通用しないということばあり得ない。低周波音なら直接頭蓋骨を貫通してよいはずである。
40ヘルツ以下の低周波音は頭蓋骨を貫通して直接内部に到達し、その影響が主として視床下部に現れると考えたい。40ヘルツ超の周波数はもちろん聴覚器の領域である
慢性ということ
人間に疎い理工学系の学者・研究者は、急性と慢性の区別が分からないらしい。医者にとって、急性肝炎と慢性肝炎、急性腎炎と慢性腎炎、急性と慢性とはほとんど別な病気であることばむしろ常識である。急性の騒音被害が聴覚器一聴神経→聴覚野(大脳)と機能するからといって、慢性の場合もそのルートに固執することば正しくない。
空気振動は物理的現象だから、急性と慢性の区別がピンと来にくいことば分からないでもない。そこでこれを化学物質に置き換えてみる。つまり、中毒である。
「内科学書」(中山書店)第3巻(1982)「化学物質と疾病」(和田攻)p.1056
「慢性中毒は、急性中毒の延長ではなく、くり返し化学物質に暴露されることによる生体の反応、適応、順応の過程の病的表現であり、常に変化しつつある生体機能の変化と考えることができ、急性中毒を薄めて慢性化したものではない」。
水谷民雄「毒の科学 Q&A」ミネルヴァ書房(1999)p.54
「同一の化学物質でも急性的な暴露と慢性的な暴露では、現れる影響がまったく異なることも少なくありません」「慢性毒性試験では、急性毒性試験とは違って、現れる毒性の性質にも十分な関心を払います」。
物理的原因でも化学的原因でも、人間の反応の仕方には急性と慢性とで大きな相違があるということである。
低周波音被害についても、急性期は聴覚野(大脳)が主役であっても、慢性期(低周波音症候群)では主として視床下郎(脳幹)に主役が交代しているのである。
感覚閾値の適用は誤り
感覚閾値とは、実験室で特定の周波数の純音を聞かせ、聞こえる(あるいは感じる)限界を求めた実験値であり、原因主義、実験室主義の象徴である。今日なおこれを信奉する理工学系の学者・研究者も少なくない。
何よりも困るのは、無精な行政の歓迎である。騒音については、測定も容易なら、基準もある。簡単に測定して、基準で判定すれば済む。基準オーバーならなお仕事が残るが、基準以下ならそれで終わり。文句は言わせない。基準は行政にとっての理想である。
ところが、低周波音については、測定が騒音より面倒なだけでなく、基準がないから始末が悪い。そこでこの感覚閾値が基準の代用品として大いに活用されて、低周波音被害者の切り捨てに利用されてきた。多くの低周波音被害者も詳しい知識を持たないから、感覚閥値以下と言われて泣き寝入りとなった。その罪は重い。
昭和51年の昔である。大阪府八尾市の某綿実油工場の近くに住むG夫人が、工場の操業と連動するような形で、頭痛、吐き気、肩凝り、耳鳴り、めまい、不眠、体重減少を来した。終日操業であったが、日曜午前9時に工場機械が止まると、たちまちスーツと楽になるが、月曜午前9時に操業が再開されるとたちまち苦しみのたうった。それはまるで、一人の人間が遠くの機械で遠隔操縦されているような悲惨な情況であった。
私が被害現場(被害者の居間)を測定すると、16ヘルツ、65デシベルの卓越周波数(ピーク)を示し、日曜出勤して測定すると、16ヘルツ、46デシベルであった。操業時と休業時との差は20デシベルに近く、この16ヘルツの測定値は被害者の症状の現実をそのままに再現していた。(下図)
これで本被害が低周波音公害であることを完全に証明したと私は考えた。ところがその後大阪府が測定して、やはり16ヘルツ、67〜68デシベルと出たが、この位のデシベルでは身体被害は考えられないと言われて放置された。もちろん日曜出勤なしである。
当時、私は感覚閥値などあることすら知らなかったが、大阪府の技師さんは先刻ご承知のようであった。しかし、被害者自身の状況には関心を払わない。
では16ヘルツの感覚閥値は何デシベルか。それは本裁定の巻尾に図が示されている。研究者により差はあるが、大きい数値の人で90デシベル台後半、小さい数値の人で80デシベル台前半である。G家の室内(被害現場)より約20〜30デシベルも大きい。
こんな超現実的な数値で生身の人間の被害が切り捨てられてはならない。しかし、この手法が今日まで、非公認ながら幅をきかせ続け、そして後述するように、この裁定でも申請切り捨ての切り札となったのである。
臨床医学の領域では、最近の化学分析や画像診断などの発達により、著しい進歩が見られる。しかし、それに伴って逆に欠陥も露呈されることになった。
第一は、患者さんからの病状の聞き取り(問診)の軽視と手抜きである。これこそ結果主義の原点であるのに、それが簡略化される傾向にある。
第二は、医師が検査データに頼り過ぎ、原点からの思索がおろそかになることである。病院に患者さんが集まり過ぎ、3時間待って3分診療などとはやされる状況では、やむを得ない点もあるにしても、患者さんの不満は大きいものがある。
特に低周波音症候群は、いくら検査しても客観的所見を呈しないから、問診がすべてである。それが軽視されるから診断されない。ざっと聞き取って“自律神経失調症”と診断されるのが関の山で、病気に入れてもらえなかったりする。
ある低周波音症候群の患者さんは訴える。初診時に話をよく聞いてもらえなかった。その時指示されたいろいろの検査データがそろっての再診時、今度こそは話を詳しく聞いてもらおうと勢いこんで行ったら、先生はこちらの方をろくに見ようともせず、検査データを次々と見て、「どうもありませんなあ」である。「こんなに苦しいのにどうもないとはどういうことですか」としつこく食い下がると、「では、精神科(あるいは心療内科)を紹介しましょう」で終わりである。
この際被害者が心すべきことば、不定愁訴のもろもろについてしつこく訴え過ぎないことである。それに貴重な時間を使い過ぎてはならない。それはほどほどでも医師には分かる。ポイントは「音源が停止すれば、あるいは現場を去れば、症状がなくなる」ということである。これが外因性の疾患であり、内因性の自律神経失調症ではないことを教える。ところがこの点を理解しないこともあって、懸命に自分の苦しさを熱演しているうちに、このポイントを伝えずに時間切れになってしまう。これでは診断されないことになる。
つい脱線したが、このような急速に進歩した諸検査は医療の場でどうなっているのか。これだけ検査機械などが進歩すると、ほとんどの医師には取り扱う能力はない。そこで諸検査の検査技師の登場となる。彼等の下支えによって現代医療は成立している。
そこで、検査技師たちが、医師は偉そうに命令するが、こんな検査を自分はようやらないではないか。やれるものならやってみろ。この腫瘍像を見付け出したのもおれではないか、と主役の場を主張すれば、医療は崩壊する。医療の場では主役は常に結果を把握している者でなければならない。
ところが低周波音公害の場では今日まで、理工学系の学者、研究者が、被害(結果)を必ずしも十分知らないままに、自分が主役と錯覚して来た。それが今日まで低周波音被害者の救済が遅れてきた理由であり、その象徴が感覚閥値であった。
もちろん低周波音の測定には、理工学系の学者、研究者、そして技術者の協力が必須である。それなくして原因は解明できない。しかし、主役は彼等の中で結果を知っていてそこから発想できる一部の人たちと、医師、被害者自身でなくてはならない。
平成12年10月、環境庁大気保全局は「低周波音の測定方法に関するマニュアル」を発表した。それまで切り捨てられてきた低周波音公害に手を差しのべた善意は評価したいが、そこで超低周波音領域の感覚閉値とも言うべき「G特性」を重視するような記述をしたためにまずいことになってしまった。「しめた、G特性は国際規格(ISO−7196)だから権威がある。これは使えるぞ」と言うわけで、これに飛びついた行政があちこちに出現した。G特性だけなら測定もまあ簡単、それで合否を判定して後は文句は言わさないという強権の発動が各地で見られ、被害者の切り捨てはさらにひどいものとなった。
しかし、その後の環境省の調査でも、慢性の低周波音による被害現場で、G特性の国際規格100デシベル(あるものは90デシベル)に合格したものは1例もない。たとえ誤用であろうとも、残念ながらこのマニュアルは低周波音公害の解決に一歩前進二歩後退を招いてしまった感がある。
では感覚閥値のどこが間違いなのか。もう一度吟味してみよう。
(1)感覚閾値は急性の実験値である。慢性の影響である低周波音症候群に通用するはずはない。低周波音被害者の中には、同じ生活環境の中に生活して、数年後に発病する例も決して少なくない。これを実験室でどう再現できるというのか。
(2)実験は普通正常人を対象にする。それも比較的被害を訴えにくい若い男性が選ばれることが多い)。そこでは個人差の問題が無視される。いろいろ工夫しても、長期間低周波音環境に生活して獲得された鋭敏性を十分評価することは困難である。
(3)そこで鋭敏な被害者自身を対象に感覚聞値を調べようとした研究もあるが、うまくいってはいない。結局その被害者の被害現場より遥かに大きい音圧レベルの感覚閥値しか得られていないようだ。被害現場が純音でないこともあるかもしれない。しかし、何よりも被害現場はリラックスした日常生活の場であって、興奮緊張の実験室とは感度に大きな差があっても不思議はない。その緊張を解きほぐすことは容易ではない。また、低周波音の被害感覚が実験室で瞬時に感得されるかどうかも確かでない。
(4)G夫人で例示したように、確実に低周波音症候群と診断できた被害者のほとんどの現場では、感覚閥値以下の測定値を示している。低い周波数の例では、その差が30デシベルを越すものさえある。
それでも感覚閲値は机上の空論とは思わないのだろうか。
こうしてみると、感覚閾値の盲信者は別にして、良心的な理工学系の学者・研究者にはこの実験成績(感覚閾値)に対して疑問を持ち、なんとかせねばと苦心された方もあるようだが、その工夫が実を結ぶはずはない。根本的に間違いだからである。
結果から出発する医学の場合では、原因の想定とそれに基づく実験がその結果に合致しない場合には、原因あるいは実験を間違いとして、やり直す。それは、正しく結果を導き出す原因あるいは実験に到達するまで続けられる。
低周波音公害の場合、ある限られた範囲の低周波音が原因であることば間違いない。しかし、感覚閥値を測定する実験が間違いであって正しい結果に到達しない。この時はその実験成績を潔く放棄するのが科学者の道である。それをぐじぐじいじっているから、今日まで大きな不幸を招来しているのである。
「閥値という意味は音波の存在がわかるということで、苦情と直接結び付く値ではない」
時田保夫「低周波音問題の全体像」
「資源環境対策」Vol.37 No.11(2001)p・1113
原因主義に立った誤った裁定
公害等調整委員会の裁定では、「申請人が、感覚閾値を大幅に下回る上記の周波数領域(10ヘルツ付近)の音によって心理的、生理的影響を受けたと認めることはできないものといわざるを得ない」と結論している。
感覚閥値は原因主義・実験室主義の象徴であって、結果主義、現場主義の医療、公害の判断には導入してはならない。
申請人は、地下鉄の列車の通過時に、突き上げるような揺れを感じるという。しかし、振動自身は大した身体被害をもたらさないと私は経験的に理解している。その揺れを感じると同時に窓等のガラスがガタガタと鳴る。これも二次的な騒音だから、分かり易くとも大した身体被害は予想しない。
ところが揺れやガタガタと同時に、シュッシュッとかドスンドスンとか表現される耳にはっきり聞こえない音が左耳に響き、それが大変苦痛になるという。そして、地下鉄開通2年余にして、めまい、続いて朝起床時の首から上にかけての凝りつけを覚えるようになった。さらに、頭痛、耳鳴りなどの不定愁訴も訴えるようになった。
これらの症状はきついものではないが、地下鉄の通過と無関係と言い切る勇気は私にはない。低周波音ではないかという疑問が浮かんでくる。そこで、低周波音の測定値の提出を彼申請人である横浜市に求め、いろいろの折衝の後やっと入手することができた。
それは申請人の住宅の屋内2階において、10ヘルツ、60デシベル以上の卓越周波数(ピーク)を示し、その値は暗騒音より20デシベル近く大きい値である。このような測定値が出ている以上、申請人の訴えとこの低周波音との関連を否定することばできない。それが結果主義、現場主義の医療、公害の立場である。原因主義、実験室主義の公害等調整委員会のこの裁定は「認めることばできないものといわざるを得ない」。
ところが、裁定の巻尾には、奇妙な低周波音測定図(周波数分析)が付けられている。地下鉄のものに次いで、H家の前の道路(幅員約7メートル)を通過する自動車の低周波音測定図(周波数分析)が付いているのである。両者は確かによく似ている。強いて言えば、音圧レベルは、地下約18メートルの地下鉄の影響よりも、すぐ近くを通る自動車の方が少し大きいくらいである。
しかし、地下鉄は、上下線を通じて1日約300回、ほぼ均一な低周波音が発生する。連続音に準用できるかもしれないという気がしないでもない。しかし、自動車の場合は、個々の車種、速度、通過場所など千差万別である。とても連続音に準用できない。
地下鉄は1両18メートル、6両編成で全長108メートルである。自動車は道路の幅員から想定して、大型車がびゅんびゅん通るとは思えない。そこで小型乗用車を想定すれば、長さは4.5メートル、地下鉄の1/24に過ぎない。本質的に長時間の連続音を原因とする低周波音被害において、この差は決定的である。(図)地下鉄と自動車とで似ているのは周波数と音圧だけであって、その長さはこんなにも相違している。同じスピードと仮定すれば、それは通過時間の相違、人間への影響時間の相違に他ならない。基本的に長時間の連続音を原因とする低周波音被害において、この差は決定的である。自動車の低周波音など持ち出すのは嫌味以外の何物でもない。
横浜市中でもっと幅員の広い、交通量の多い道路はいくらでもあるというのに、市民から被害の訴えが多数あるとでも言うのであろうか。
原因主義に立脚した裁定に対する自らのわだかまりを、類似した自動車の測定図で打ち消そうとしたのであろうか。
心理的とは?
結果から判断する医療、公害の立場では、本申請人の訴えを否定することばできない。否定できるのは、申請人がウソをついていると判断されるか、精神病と判断される場合に限られる。白状すれば、医師は習性として、この患者はウソをついているのではないか、精神病ではないかということば常に念頭に置いて訴えを聞いている。訴える人がウソでも精神病でもないと判断されるならその訴えは真実であると判断する。真実として対応し、思索・検討しなければならない。そうでなければ医療は成立しない。
ウソや精神病と判断されない限り、勝手に原因から判断し、感覚閥値を乱用して申請人の訴えを全面否定することは誤りであり、医師として許すことはできない。
そのことが引っ掛かるのであろうか、裁定ではもっと奇怪な論法が最後に使われているのである。
これまでの理工学系の学者、研究者の低周波音公害の研究の中で、被害に対して心理的影響とか生理的影響とか言う言葉がしきりに使われる。医療の場では馴染みのない言葉である。不定愁訴の雑多な訴えを、これは心理的影響、これは生理的影響と区別して何の意味があるというのであろうか。
ただしかし、いらいらは心理的影響だと言われれば、まあそんなものかと思わないでもない。平和な家庭生活が思いがけない低周波音で長時間連続的に侵害されては、それだけでもいらいらして当然である。その音源に対して怒りを覚えない寛大な被害者など経験したことはない。それを、憎しみを抱いているからいらいらするのだ。それは心理的なものだから、低周波音被害に当らないとなれば、そもそも不定愁訴を中心とする公害被害など存在を否定されることになりそうだ。
公害等調整委員会は公害被害者は聖人君子であるべきだと思っているのだろうか。
結果から推理する医療の場では、時間経過が重要な意味を持つ。公害も同様である。
例えば音源が工場の場合なら、工場の建設以前、操業以前から存在する症状が不変であれば、無関係と考え関連は否定できる。操業開始以後に発生、あるいは増悪した症状は、基本的に関連ありと考える。もっとはっきりしているのは、工場が操業を停止するか、工場から離れた場所に転居したらどうなったかである。それにより軽快治癒すれば、因果関係がある可能性が極めて濃厚になる。
これは臨床の場で薬剤の副作用を判断する時に、常用される方法論である。
裁定によれば、申請人らは、地下鉄の開通前から、地下鉄が直下を通過することによって振動や騒音が発生することを心配し、収用に反対していた。「申請人が本件地下鉄運行開始の前後及び転居の前後に、心理的な影響がなかったと認めることはできない」と述べて、「心理的」に責任を全面転嫁した。
事前に心配するのは誰でも当然のことである。それがいけない、心配するから症状が出るのだというのは、暴論以外の何物でもない。
工場が操業を停止したり、やむを得ず転居した低周波音被害者はまず全員その症状が軽快・治癒へと向かっている。申請人もまた当然、揺れもガタガタもシュッシュッ・ドスンドスンもなくなり、その他の不定愁訴的症状も転居後軽快した。ところが、これも心理的と裁定された。つまり「気のせい」だというのである。
一方で感覚閥値を科学的と評価し、他方で、それに背反する事項については、こんなニセ科学的な論法で否定する。言うべき言葉がない。
終わりに
公害等調整委員会は公害に悩む国民の希望の星でなければならない。
ところがこの裁定に現れたその姿は、公害の本質を理解せず、誤った原因主義、実験室主義の首かせを脱することなく、結果主義、現場主義に基づく被害事実を強引に否定し、最後には「気のせい」にして被害者を切り捨てた。
過労死に関する報道をみると、くも膜下出血が過労死と認められる例が多い。くも膜下出血の原因はもともと脳内にあった動脈癌が原因である。しかし、過労死として認められている。さらに、自殺についてすら、過労死が認められる例まで出て来た。いずれも医学的な原因論からは逸脱している。それは原因でなく正しくは条件に過ぎない。
医学的には原因と認められないのに、条件に過ぎない過労が原因として扱われるということは、厳格な医学的判断を離れて、労働者の社会的救済という意味があると考えざるを得ない。それはある意味で国の国民に対する善意・優しさの表現であり、それがあるべき国の政治というものであろうか。この判断を間違いと言い立てるつもりはない。
公害等調整委員会もまた公害被害者の救済という社会的使命があるはずである。不運にも公害という不幸な環境に置かれた国民に対する善意・優しさが求められているものであろう。被害事実を出来るだけ肯定的に汲み上げて判断し救済する立場ではないのか。
ところが本裁定をみると、原因論という誤った立場に立って、逆に厳しく判断して被害事実まて切り捨てている。それも「気のせい」とまで言い立てて。
公害等調整委員会は間違った立場を固守して間違った裁定をしているのである。旧弊にとらわれない勇気と良識を望みたい。
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※冊子からのOCRでの「読み込み時点」で間違いがあったので修正しましたが、文意不明な点などありましたらご指摘下さい。(2003/04/23)
参考リンク
ホールと地下鉄 地下鉄騒音、振動はエネルギーが大きいだけに、その防止は困難である