9・4・3 タッチの差
2003/01/14 。朝一番に課長より電話。「10(金)に、騒音の苦情があるので近々測定をさせてもらいたい旨を業者に担当者が伝えてしまった。」とのこと。ウッソー!!
駐車場の豹変振りを課長に話した。課長曰わく「そんなに効果があるなんてとても信じられない。これまで30年以上ズーッと公害関係の仕事をして来ているが、我々が測定するなどと言っただけでそんな『劇的効果』があったことなど一度もない。とても信じられない。」と言う。「何か威したんじゃないの?」と私。「いえいえ、とてもそんなことは。もし本当にそうならそれはそれで結構ではないですか」と。
確かにそうではあるが、これでは測定してもこれまでの「悪行」の数々が全然出ない。下手をすれば、私の騒ぎが文字通り「空騒ぎ」ってことになってしまう。でも、今日だけかもしれない。とにかくしばらくはビデオを撮ろう。
連日撮ったが「結果」はほぼ同じ。アイドリング時間最短の運転手は到着する否や即トラックのエンジンを切り、走って自家用車に乗りこみエンジン一発、帰ってしまう。その間5分。出かける輸送車のアイドリングも長くて5分。アイドリング無しで出て行く車さえある。
ビデオの話になる。課長「どうせ直ぐに元に戻るとおもうけど、それにしてもこんな劇的な効果があったことは役人生活の中で本当初めて。あんたの話が未だに信じられない」私「こんなに効果があるのならなぜもっと早く手を打ってくれなかったの!」 課長「だって本当マサカだもの。本当に今でも信じられない」
これまで、数々の産廃処理業者や工場など並々ではない業者を相手にしてきている課長の話である。本当なのだろう。
この間、2階のお風呂場の水が漏り始め1階が水浸しになり、修復に大わらわ。挙げ句に奥さんの肉親が相次ぎ3人入院。当に「今ここにある危機」である。
そんなかやで走り回っている間に明日はもう測定日である。
9・5 測定当日
2003/02/18 。風もなく、星が良く見える。寒い。
午後09:30
最早家中の灯りを全て付けまくりお祭り騒ぎで準備万端。
午後10:00
市関係者3人、測量業者2人が機器をセットしたワゴン車で到着。測定箇所の決定、マイクのセットなどを行う。駐車場、我が家正面、寝室(一番煩いと思われるところ)、奥の部屋(一番静かと思われるところ)の4ヶ所同時の測量となる。
午後10:30
騒音源の音を録るため運転手に「お願いして、無理矢理」30分間「も」アイドリングしてもらい、録音。
部屋の中で「アイドリング聞こえます。」と課長。正直に言おう。「良く聞こえない」とにかくアイドリング音があまりに静かである。良く見れば車が以前と変わって新しくなっている様子。ナンバーが違う。
駐車場の音を録るために道路を渡してあるケーブルのカバーを通過交通車が踏む「カタカタ」という音が周りに響き渡る。
午後11:00
音に鈍感なはずの隣家が夫婦で「カタカタ言う音がうるさい」と業者に苦情を言いに来た。静かなはずの時間に慣れない音がするのがどんなに煩わしいモノか少しは解ったろうか。私のこれまでの話には全く理解がなかった。ケーブルを隣家から一番離れた所に移動する。
午後11:30
「どうしても音が煩くて寝られない」と隣人が言うので、ケーブルを渡しての道路反対側の駐車場での測定を停止。
担当者と延々と雑談。その中でいつもいつも30分以上もアイドリングをやっていた運転手(何せ業者ご推薦の運転手なのだが)が右代表でアイドリングをしたらしい。同行している市の次長が運転手に話を聞いたところ、これがやはり何と「ディーゼルエンジンのアイドリングが心地よく好き」であることが判明。バッキャロー。ほとんどはこいつのお陰で私は「音アレルギー」になってしまったのだ。
市職員との話の中で、運送業者もこのところトヨタ関係も例のISO何タラを取得しないと下請けとして弾かれてしまうということで、それなりに大変らしいとのこと。何がISOだ。とは言っても下請け業者にとっては「お上」からの命令は絶対的なモノで、営業を続けるには絶対条件らしい。そうかインチキISOも無いよりは増しなのだ。でも、私にとっては「おそい」
午前01:30
そんなことをグダグダと話している内に課長は明日もあるのでと帰ることになった。私も居ても何をするわけでもないので少し遅れて帰ることにした。
みなさん深夜の通過交通の意外の多さにビックリ。私だってこれまでそんなに遅くまでは起きていたわけではないし、第一こんな風になるまでは、通過交通の騒音など全然気にもならず、夜は完全に眠っていたのだ。改めて深夜の交通量の多さと音の大きさにビックリ。
こんなに騒音の凄いところに延々と暮らしてきた人間をたった数ヶ月で「音アレルギー」にしてしまうのであるから、「ディーゼルエンジンのアイドリング」はその気になれば十分「武器」として使用可能であろう。だが、「なる人しかならない」のだから、「武器」としてはあまり有効的とは言えない。あまり音圧を上げるとばれてしまうから、音域を下げ、長期にわたればもっと「有効性」は増すかもしれないが。
私は何をしたわけではないのですがどっと疲れました。
使用機器はその後の報告書によれば以下のようであった。
低周波音レベル計 NA-18A(RION)
普通騒音計 NA-06(RION)
振動レベル計 VM-52A(RION)
レベルレコーダー LR-04(RION)
1/3オクターブバンド周波数分析器 SA-29(RION)
データレコーダー PC208Ax(SONY)
測れば終わりというモノではなく、実は分析が大変なんだそうである。結果は2、3週間後に出るそうである。寒い中ご苦労様でした。よろしくお願いします。
秘密測定の一例がお解りいただけただろうか。少なくとも私の場合には、それまでの「真実の事実」が隠されると言うか、無くなってしまった訳だ。結果オーライではないかと思われるかも知れないが、この時点で私自身は状況に耐えられず既に引っ越してしまっている。タラレバではないが、私の場合はこうした測定が問題発生当初に行われていたら、それなりの効果はあり私は引っ越しせずに済んだかも知れない。しかし、その可能性を潰したのは紛れもない行政である。時既に遅し、である。”真の状況”を知るためには秘密測定は証拠保全のためには、行政が通告測定をする前に素人でも良い、出来ればしておくに越したことはない。
4.2.5 まとめ
著者はこの節のまとめとして以下のように要約している(p.264)。
(1)低周波音の身体的影響の問題について、主流派の見解(感覚閾値の見解)のポイントは、
a.低周波音が人に感知されて初めて、身体的影響が生ずる。
b.人の身体的症状が低周波音の影響で生じているかどうかを判断するにあたっては、低周波音の測定と参照値との比較と、本人が低周波音を感知していか否か(体感調査によって調べる)の二本立てで判断する。)
(2)汐見氏と私は、上記のa.については主流派と同意見である。b.については、私は、二本立てでなく体感調査のみで判断すべきであると考えている。一方、汐見氏は、…「本人が自分は低周波音のために身体的被害を受けていると主張するのであれば、それに間違いない」というもののように思われ、妥当でない。…。
a.については異論はない。しかし、多くの人は”低周波音(100or80〜20Hz)は聞こえにくい音=聞こえない音”と勝手に解釈し、尚かつ「感知=聞こえる」と理解している可能性が非常に大きい。人間が「感知」するのは必ずしも聴覚によってのみでない事をそれこそ「感知」しておいてもらいたい。この2点を先ずは念頭に置いてこの項は認めることが出来る。
b.についてはぶっちゃけて言えば、著者の言う「体感調査1本立て」と「本人の主張があれば」とどう違うのか私には今一理解できないが、著者の言う「体感調査」なる言葉は、「発生源の稼働状況と苦情内容に対応関係…」と言う表現だろうが、これは測定時に音源をオン・オフして測定者が被害者本人へ「今は聞こえますか」などと聞き、仮に感じたとすれば、その時の測定値を暗騒音(対象音源が稼働していない状態)と比較するわけで、そこに明らかに測定値に変化が見えればひとまずは騒音の影響が有る事になり、謂わば、多くの被害者も言う“被害者付きの現場での測定”とも言えるのであろうが、正直言って、状況が普段と違う異様な緊張感の中で、早押しクイズ的に応えるのは難しいと思う。事実「対応していない例が多い」と言うことであり、無理からぬ事であると思う。
著者の”同氏の説は「本人が自分は低周波音のために身体的被害を受けていると主張するのであれば、それに違いない」というもののように思われ”と言う言い方はまるで、”汐見氏は電話か手紙で被害者の主張を聞いただけで、被害者と診断している”の様に思えるが、汐見氏は少なくとも現場での測定データが無くては被害者とはしない。著者の言う「体感調査1本立て」のほうが遙かに著者が汐見氏の説について述べている「一見被害者の立場に立っているようにみえるが、実際はそうでない。」と思える。とてもじゃないがそんな主張が行政や裁判で通ればこれまで誰も苦労していない。
4.4 低周波音に関する裁判例
4.4.2 裁判例の検討
低周波音事案を受任した弁護士は当然のことながら、低周波音被害でこれから裁判でも起こそうと思っている人はもちろん、低周波音問題で行政に乗り込もうなどと考えている人にも是非とも目を通して欲しい。事案の内容だけを短く紹介する。番号が飛んでいるのは著者が検討に値すると思った事案についてのみ記されているからである。
B甲府地都留支判昭和63・2・26→スーパーマーケットのコンプレッサーからの低周波音被害。
D京都地判平成4・11・27→繊維工場の乾燥機からの低周波音被害
H東京地判平成17・5・31→高速道(圏央道)からの低周波音被害
I千葉地判平成17・7・15→成田国際空港における航空機からの低周波音被害
J東京地判平成17・12・14→ライブハウスからの騒音、振動及び低周波音被害
M横浜小田原支判平成20・3・25→廃棄物処理施設の操業によるガス、悪臭、騒音等の被害
流石凡例等を探すプロである。話には聞いていたが詳しい内容はトント知らないモノもある。これらは判例時報、訟報月報、判例タイムズから引用されているのだが、一般人としてはそれらの雑誌を図書館などで目にすることは仮にあってもそれを一々繰ることなどとても出来るモノではない。と思ったが、昨今は判例調べもデータ化されネットでも検索できるようで試してみたが、そうそう待ってましたとばかりにヒットするようなことはない。この検討、さらにはページ数にして全体の1/3以上を占める後半の付録「裁判例一覧表」は著者のこれまでの弁護士として低周波音問題に関わってきた経験に裏打ちされた著者の労作のリストであることは間違いなかろう。
5.私としてのまとめ
さて、ここらで結論的らしきことを述べて終わりにしたい。本書巻頭の「はしがき」で著者は本書を、「第一に想定している読者は、騒音、低周波音あるいは振動に関する事件を受任した弁護士であるが、…」と言うことに始まり、に述べられていることは全くごもっともで、これ以上の宣伝文句は無く敢えて提灯持ちをするまでも無かろう。
低周波音問題を受任した弁護士に対して、依頼人は素人の勝手な思いこみで、このくらいの知識は当然持っているだろうと思っている。しかし、現実はその期待に対してこの手の問題は、勝利を勝ち取るのは非常に難しい事を承知の上で、確たる勝算もなく引き受けるのは、ほとんど詐欺に等しい行為ではないかと考えると、特に低周波音問題を扱う弁護士にとっては少なくともこの章は焦眉の問題に対する大いなる助けとなることは間違いなく、必携と言えよう。
さて、著者も意義あるとした「主流派と汐見説を同じ土俵にのせて比較し、整理した」部分であるが、著者の汐見説に対する見解だが、既に幾つか上げ、繰り返しになるが、以下の点を考慮していないのではと思われる。
汐見氏の主張や論点の変化を恰も変節(信念・主義・主張などを変えること)の如く取り上げるが、汐見説の変化のうねりは、実にここ10年そこそこの事であり、実に幸いなことに私は氏のこの間をリアルタイムで見てきた。そして、これは単に汐見氏の変節や矛盾と言うのではなく、変容と言うべきで、汐見氏だけが長年にわたり叫び続けてきたような低周波音問題が、「低周波音問題対応の手引書」(平成16年 2004)の公表以来と言うよりその少し前から急激に変化した時期と一致する。これは低周波音問題にこの間携わってきた著者ならこの点は十二分にご承知であろう。
実は、氏の学会に於ける発表は、長く同行されていた田中幸子さんの話を思い起こせば、それまでは、常に先ずは「低周波音による被害の存在を訴える」事に終始していたようである。氏が大きく”変節”したのは、「参照値」の登場と共に、「低周波音問題存在の認知がなされ」次の段階に入ったと考え、それまでの単なる「被害の存在の訴え」から、被害者の足きり的役割しか果たさない、単なる「測定実験による参照値」の非合理性の否定、その傍証として現れてきた低周波音認知の機序の解明(この仮説、試論が頭蓋骨貫通論、左脳論である)などに方向に変換したのは当然である。
氏は所謂低周波音を関知することが出来ないとご本人から聞いた。ではどうやって氏は低周波音の存在を確認するかというと、もちろん測定によりその存在を知るのが氏の感知法なのだが、もっと手っ取り早くは永年氏の測定に常に同行されていた奥様が実は低周波音を感知できる方なのだ。氏が低周波音を全く感知しないということは、被害者が我田引水的に低周波音を犯人とする事があるとすれば、その立場は全く逆である。即ち、氏の低周波音存在の判断は”科学的”判断である現地での測定データと被害者の体感調査に頼らざるを得ないのは言わずもがなのことである。
低周波音被害の存在という「事実の存在」が集成されていくに連れ、と言いながらも、現在も依然として「真実」が認定されていない現実の中であくまで「低周波音による被害の存在」と言う一つの真実を構築しようとして行動する研究者である氏の理解に基づく見解が、行動とそれに基づく推論とともに変化していくのは当然であり、仮に新たな己の理解が以前の己の論を否定するような矛盾が有ったとしても、それは紛う事なき進歩なのである。
従って、氏にとっては論の経年的変化は自然の流れであり、仮にあってもその矛盾を一々訂正することはさほど意味がないのではと私は考えている。こうした考えは既に存在する法律の条文の体系の文言を洗い、そこに突破点を見出そうとする法律家的思考法には全く馴染まないのでは無かろうか。
何れにしても、試行錯誤とそれに伴う矛盾は、未だもって確立された訳ではない論の最先端を行く者の宿命である。これは「参照値」にも言えることであろう。
この本を入手したのが、7月の始めで、やっと何とか文としてまとまってきたので至らぬ所は多いであろうが、ひとまずアップロードします。その間アジサイは完全に終わり、百日紅の花が咲き始めている。マスコミ的には以下の事件が渦中だが、そこには現在の“主流派”の考え方が如実に示されていると思う。
@オスプレー 「配備自体は米国政府の方針だ。どうしろ、こうしろという話ではない」
米国のような治外法権ではない隣に出来てしまったエコキュート、地元のみんなが承諾してできた近くの風車、これは「あなた」が「どうしろ、こうしろという話しではない」ことはなかろう。
A中電 、「福島原発事故では放射能の直接的な影響で死亡した人はいない。
中電の課長は「中部電力社員です。個人として意見を述べたい」とした上で、「福島原発事故では放射能の直接的な影響で死亡した人はいない。5年、10年たっても状況は変わらない」と原発の必要性を訴えた。
人が死ななければ何をしても大丈夫という考え。「5年、10年」は変わらないかも知れないが、30年経って変わったとき因果関係は究明できるのか。
B大津いじめ自殺 「具体的な事実の摘示(提示)がない。誰がいじめの事実を目撃したのか明らかにされたい(してほしい)」
死んだとしても遺書がなければ、或いはいじめの現場を誰も見ていなければ真相は解明されない。
何とも暑い日々が続いています。
気がつけば7月ももう末。見上げれば百日紅が盛りに咲き始め、6月中雑草軍と格闘し続け,腰を痛め退散した我が家の"猫額"の庭は、雑草の草原となった。
20120727
最後まで読んでくれて有難う