前回の「音と脳 序論」から早既に半年が経ちそうです。その後もボチボチと脳関係の本などのページを捲ってはいるのですが、何分にも全くのゼロからの出発で内容的に解りにくいのは仕方ないとしても、最近の脳科学の発展の基礎的な文献は、新しい分野の例に漏れることなく、翻訳物が多いのです。

元々、翻訳モノは、愛読分野の推理小説分野の“読まずにいられない“様なモノでもこのところ何年も前から“積読”状態になっており、特にこういった分野では、まずは、翻訳者自体が、「内容に関しては専門家」であることが必須なのだが、翻訳者としては必ずしも専門家ではないわけで、小説並みの読み物を求める方が無い物ねだりなのかも知れません。

 

で、その内容に触れるには内容そのものと、翻訳文としての日本語との二つのハードルを越えなくてはならない訳で、非常に読みづらい上に、翻訳はどうしても説明勝ちとなり、大体は原文より長くなってしまうことが多く、詰まるところ、大冊になるわけで、元々“遅読”の私としては、多くが、未だに“積読”状態にあります。

 

しかし、このところ、任天堂DSの脳トレーニングの流行もあってか脳関係はブームらしく、関係本が沢山出ており、ひとまずは日本人により一般向けに書かれた本を拾い読みしているところです。

実は、松嶋菜々子のコマーシャルがかなり気に入ったので任天堂DSを買おうと思っていたのですが、当初は品切れ状態が続き、結局今もって買わず終いとなっています。不思議なことなのか、当然のことなのか、ゲームはしなくても、脳関係の本を読み、低周波音問題をあれこれ考えていると、自分の頭の中のどこそこかでシナプスがピピピと、あるいは、脳みそがグニグニと動いて、充分に脳がトレーニングされているような感じがします。

 

 

1.低周波音症候群“左脳受容説”

1−1.右脳左脳問題 

 

さて、最近の汐見先生からのお手紙で「低周波音症候群“左脳受容説”」を考えてみえると言うことで、汐見先生の考えの全容はまだ解りませんが、触発されて、この問題を私なりに考えてみようと思う。

 

まずは、「右脳左脳問題」なるモノから考えてみる。

実は私自身「左脳」なるモノを最初に考えたのは、低周波音症候群の、当に「もし、あなたが、何か変だなと思っている内に、胸の圧迫感、息苦しい、吐き気、ふらつき、立ちくらみ、頭痛、頭に帽子をかぶったような感じ、耳の圧迫感・痛み・ふさがり感、目がクシャクシャする、肩の痛み・凝り、のどがはしかい、全身の圧迫感、手のしびれ、足が痛い・だるいなどを感じ、医者に行って薬をもらっても回復がはかばかしくない場合」(「低周波公害のはなし」汐見文隆 著  晩聲社)時であり、「頭蓋骨の中で脳みそがガクガクし、ブヨブヨになり首から上が疲れ切ってしまう」(「黙殺の音」(※1))と言う状態が少し治まった時であった。

当然、当時の私は汐見先生の著作から、ただただ、今の自分の状態は、低周波音症候群と言うんだ、と言うことを知っただけで、低周波音の「て」の字も知らない時で、健康的にも、環境的にも、当時の頭の状態では、何か関係があるのではなかろうか、と言う程度以上には、とても考えられる様な状況ではなかった。

 

今改めて右脳左脳問題を見てみると、日本では、角田忠信氏の「右脳と左脳−その機能と文化の異質性」(1981)に始まる。本著の本領は、目次に、「日本人の音認識の特徴」「脳の機能と文化の異質性」とあるように、そもそも日本人と西欧人の音認識の差異の存在、そして、その差異は脳の構造に依る、とした点であり、現在言われている脳科学とは、少し視点が違うような気がする。

 

しかし、実に、この「日本人の音認識の特徴」と言う点こそが、私が後に“低周波音症候群風土病説”に到った原点なのであるが。

 

氏の著書は、当時は画期的着眼として、一般的には右脳ブームの火付け役となった。しかし、現在では氏の“解りやすい”コンセプト自体が完全に肯定されているわけでは無いようである。発刊から20年以上も経てばそれなりに新しい“知見”により、状況が変わるのは当然である。しかし、それは、むしろ、肯定的よりも否定的な見解が出てくるのは世の成り行きとして、当然である。即ち、反証としての知見である。しかし、また、そうあってこそ「科学」」である。

 

しかるに、低周波音問題に関しては、昭和47(1972)に始まる、西名阪自動車道香芝高架橋公害当時は、被害の可能性を示唆しながらも、その後、有耶無耶にせざるを得なかった事に始まり、30年以上経った今日では、否定的どころか、「低周波音部分はそもそも聞こえないから、その音による被害は有り得ない」と言うような、到底科学的とは言えない“科学的知見”でもって、環境問題としての騒音から低周波音部分を全く除外する様な方向がとられようとしていると聞く。と、早速と低周波音問題に直結してしまうのだが、本題の右脳左脳問題にもどろう。

 

 

1−2.右脳左脳論は俗説

 

まずは、2007/02/23の朝日新聞の報道で、「ウィキペディア頼み、誤答続々 米大学が試験で引用禁止」(※2)とされた「大変便利で、調べごとの導入に使うことに全く異存はない」と言われるウィキペディアの「右脳・左脳論」(※3)から引用する。

 

右脳・左脳論

 

脳機能局在論でよくある非科学的俗説として右脳・左脳論がある。これは左側が言語や論理的思考の中枢であり、右側が映像・音声的イメージや芸術的創造性を担うとし、例えば理屈っぽい人物は左脳優位、芸術肌の人物は右脳優位だとする説であるが、単純かつステレオタイプな解釈であり、そのほとんどは科学的な知見からかけ離れた通俗心理学に類するものであると批判されることが多い。

 

大多数の研究者が特定の精神機能の中枢とみなしている領野は今のところ、末梢との神経接続が解剖的に調べられている初期知覚領野・運動野を除けば言語野しかなく、これは脳の損傷と失語症の間に因果関係があるためである。絵画を描くための中枢や音楽を処理する中枢は今のところ確認されていない。

 

前述の通り、言語など高次機能との関連においても左右の活動に差があることも示されてはいるものの、fMRIなどによる脳活動の測定はあくまで相対的な活動の増大を示すものであり、その部位がその精神活動を行う中枢であるとか、その部位がその精神活動を専門に処理しているといった根拠にはならない。また芸術などを対象とした脳機能イメージングでは右半球にも活動のピークがあるといった程度であり、多くの研究では左半球にも活動の増大が認められる。左半球全体が論理処理のために活動しているわけではない。また左半球だけが論理処理をしている根拠は無い。

 

右半球全体がイメージ処理のために活動しているわけではない。また右半球だけがイメージ処理をしている根拠は無い。

「右脳を鍛える」と称する訓練等があるが、それによって「イメージ能力」や「創造性」が向上し、それが右半球の神経活動と関係しているという科学的根拠は基本的に無い。

脳機能イメージングでは神経接続関係を調べられない。右半球と左半球に活動のピークが認められる場合でも、「右脳と左脳が協調して働いている」といった論の根拠にはならない。

この説に関しては、この説でもちいられる左脳、右脳という用語からして学術用語として用いられることは基本的になく、解剖学的な定義などは不明確であるとみなされている。

 

 

と言うことで、「右脳・左脳論」自体を、「非科学的俗説」としている。確かに、最近の脳関係の本を読んでいても、脳の状態は複雑で左右という大きな区割りだけでは考えられない面もある。更に、そもそも脳機能が必ずしも局在しているかどうかも確定できていない様でもある。しかし、4つに別ける血液型による気質・性格分類や2つに別ける脳の認知の男女の性差レベル的には正しい論ではなかろうか。

 

これまでの研究により、恐らく、基本的な点に於いては、右脳左脳、男女差による脳の部位による基本的な論は正しいのであろう。が、しかし、世の“大多数の研究者”と言うモノは有無を言わせないような明確な証拠が出てこない事には納得しない様で、それまでは、あくまで、“俗説”とするのであろう。

しかし、その姿は、私には、単に、“大多数の研究者”達が、トップランナーが、何かで転けるのを密かに期待しながら、走り行く姿を、羨望の目で見ている図に見えてしまう。

もしそうでないなら、積極的に反証を示し否定するか、対抗しうるような仮説を提示すべきである。もちろん、“大多数の研究者”達はそれができないから、「まー、ねー」と曖昧否定的に見ているのであろうが、それはどこの“業界”でもあることであろう。

否定もせず、単に処理済みとしようとすることは実は認めたことであり、実は、角田忠信氏は今なおトップランナーであると考える。

いずれ有無を言わせないDNAのような詳細な脳地図が創られるのであろうが、それにはDNA解明に要したであろう何倍かの時間が必要なのであろう。いずれにしても余りに未解明部分が多いようで、文字通り今後の研究に待たれると言うのが現状のようである。

と言うことは、素人にも仮説の提示が許される状況に有るわけである。

等と言っている内にも、

「カラスの脳は、知能をつかさどる領域がほかの鳥類に比べ広範囲にわたっていることが、慶応大のグループの研究で分かった。同大の伊澤栄一准教授(比較認知脳科学)は「カラスの知性を裏付ける結果。知能はチンパンジーなど大型の類人猿にも匹敵するのでは」と話している。

カラスは体重に占める脳の重さの割合が、ハトの約2.5倍あるとされている。道具をつくったり仲間を欺いてえさを隠したりするため、知能が高いといわれてきた。

伊澤准教授らはハシブトガラス6羽を使い、脳の断面を1ミリずつ約50枚採取。さまざまな役割を持つ領域が脳内でどのように位置しているかを示す「脳地図」を描いた。

 

http://www.asahi.com/science/update/0512/TKY200705110363.html

2007/05//14「朝日新聞」

 

等と言う報道があるのだから、トップランナー達の研究は日進月歩であるようだ。

 

    1「黙殺の音」拙著

今この自分の表現を考えるとなかなか的確な表現であった事が解る。それは、日本脳神経外科疾患情報のHP()によれば

「脳は頭蓋骨の中で脳脊髄液という液体のなかに浮かんでいます。その液体は脳室という脳の中の液体で満たされた部屋の中にある脈絡叢という構造物で作られます。脳脊髄液は一日に500ccもつくられ、脳の部屋(脳室)、脊髄周囲、脳の表面を循環し、最後に頭頂部の静脈に吸収されます(7)。この流れがどこかで堰きとめられると水頭症という状態となり、頭痛、吐き気、意識の低下などが起こります。」

 

とあり、「堰きとめられる」までは行かなかったものの、流れが非常に悪くなっていた、あるいは、実際に見ることができない音の実験を視覚化するために洗面器に水を張って低周波音を出すと小さな波が立つのだが、脳脊髄液がどのくらいの速さの流れか解らないが、少なくとも低周波音は脳脊髄液に対し通常とは異なる波立ちを与えていたことは確かであろう。その波が仮に極めて些細なモノとしても、三半規管の内部をリンパ液が流れることにより、有毛細胞が刺激されることで、前庭神経からに刺激が送られ、体(頭部)の回転が感知できるしくみがあるのだから、不必要で異常な「さざ波」が何らかの変化を脳に及ぼさないはずはなかろう。

 

http://square.umin.ac.jp/neuroinf/brain/007.html

 

※2「ウィキペディア頼み、誤答続々 米大学が試験で引用禁止」

  http://www.asahi.com/digital/internet/TKY200702220331.html

 

※3「右脳・左脳論」フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%84%B3%E6%A9%9F%E8%83%BD%E5%B1%80%E5%9C%A8%E8%AB%96

 

 

1−3.英語耳・英語脳

 

まずは、ウィキペディアがいみじくも、

 

「右脳を鍛える」と称する訓練等があるが、それによって「イメージ能力」や「創造性」が向上し、それが右半球の神経活動と関係しているという科学的根拠は基本的に無い。

 

と、述べている、「右脳を鍛える」と称する訓練等の一つ、子どものお稽古事分野で以前から注目され、早期教育の必要性の宣伝文句の基盤となっている、英語耳とか英語脳から見てみる。

 

以下は右脳記憶・右脳開発を英語学習方法に取り入れているとしている「ミミテック聴覚右脳学習法」というHPからの引用だが、素人には解りやすい説明である。

 

左右両脳の機能、役割の研究は、1981年にアメリカのスペリー博士がノーベル賞を受賞したのと前後して世界的に研究が始まったばかりで、まだまだ脳の働きのすべてが解明されているわけではなく、我が国ではスペリー博士より先んじて、七田式右脳教育を主宰する七田眞氏が、子供の潜在能力開発を実践的に行って国内外でも知られるようになりましたが、まだまだこの分野は未知な領域だといっていいでしょう。
 しかし、今日までに左右両脳には、はっきりとした役割の違いがあること、また私たち人間はわずか3%しか脳を使っていないことなどが解き明かされ、解明とともに未開の脳をいかに開発させるかといったノウハウも積極的に模索されるようになってきました。

これまでに明らかにされた左右両脳の役割で、まず一番大きな違いは、左脳が言語と論理で理解認識思考する顕在意識脳であり、右脳はイメージで認識記憶思考する潜在意識脳であるということです。
 先に、脳は全体のうちのわずか3%しか使われていないと述べましたが、実はこの3%は、そのほとんどが左脳の働きなのです。

左脳は、言語で理解、認識し、論理的に分析、判断をする脳で、じっくり計算し、じっくり記憶します。また、記憶容量が小さいため、短期記憶する一方、どんどん忘れていきます。それに対して右脳は、言語で認識するのではなく、イメージで瞬間的に記憶認識し、記憶も計算も大量かつ高速で行っていきます。
 要するに、写真を撮るように一瞬にイメージで記憶してしまうわけです。見るもの聴くもの体験することなど、印象が鮮やかで強烈であればあるほど右脳はイメージ記憶として長く潜在意識内に保存していきます。そして、必要な時にサッと記憶をよみがえらせたりして、ひらめきや直感力を引き出す役割をはたすわけです。

左脳が未発達な赤ちゃんや幼児は右脳のイメージ記憶だけを使って母国語をマスターしてしまいます。そして、徐々に発達する左脳によって少しずつ論理的に言語を認識するようになるのです。

小学生以上の時期になってしまうと、ほぼ完全に左脳優先の生活パターンが定着してしまい、右脳学習はむしろ苦手な作業になっていきます。
 しかし、右脳の窓口である耳を刺激してやると、眠っていた右脳は再び活動をスタートさせていきます。つまり、耳を幼少の頃の耳に戻してやれば、まさに赤ちゃんの時期にフル回転していた右脳の働きを取り戻すことができるのです。

左脳は言語と理論でじっくり思考し、記憶したり計算する意識脳(顕在意識脳)です。コツコツ努力し積み上げる直列型の許容量の小さい脳であるため、どんどん忘れないと 次の情報を記憶できないので短期記憶脳です。また、肉体脳であるため緊張した意識集中によりイライラのベータ波脳波状態であり疲れやすく 持続力が無くストレスがたまります。
 現在の学校教育は特にこの左脳一辺倒の言語と論理的思考の左脳記憶学習に偏っています。
 一方、右脳は本能的能力から発達した脳で見たまま聞いたまま、感じたままにイメージ、5感、直感で 瞬間的に記憶したり、情報を取り込む無意識脳(潜在意識脳)です。瞬間的に大量の情報をイメージとして記憶したり超高速で計算してしまいます。無限な許容量を潜在意識に記憶しますので、必要時に瞬時に直感的にアウトプットできます。

 

言語認識
論理的思考
計算
じっくり記憶
顕在意識
(意識脳)
ストレス

情報を逐次処理する

細部を捉える

話し手の内容を理解する

幸せや喜びの感情を担当

 

 

イメージ記憶
直感・ひらめき
芸術性・創造性
瞬間記憶
潜在意識
(無意識脳)
リラックス

情報を並行処理する

全体像を捉える

話し手の感情を把握する

怒りや不快の感情を担当

 

右脳と左脳の違い

 

 

「ミミテック聴覚右脳学習法」http://www.mimitech.jp/

healthクリック」http://www2.health.ne.jp/library/5000/w5000321.html

 

 

1−4.右耳左耳問題 

 

うーん、パソコンに例えると、左脳はハードディスク、右脳はメモリーと言った感じになろうか。しかも、右脳は超巨大な一時メモリーというのだから、それを活用しない手はないと考えるのは当然である。「鍛える」事ができるなら鍛えたいモノだ。

たまたま保存しておいたのを思い出したが、2004年に以下のようなニュースがあった。

 

左耳は音楽・右耳は言語、互いに役割分担…米大研究

 

 【ワシントン=笹沢教一】耳の働きには左右で違いがあることが、米カリフォルニア大とアリゾナ大の乳児約3000人に対する聴覚測定の研究でわかった。

 右耳は主に言語を強調して脳に伝え、左耳は音楽に対して同様の反応をするという。これまでも左右の聴覚機能に違いがあるとする説があったが、耳自体の働きは同じで右脳と左脳の違いによるものと考えられていた。

 今回の結果は、乳幼児の教育や聴覚障害の治療、リハビリなどに役立つものとして注目されている。10日付の米科学誌サイエンスに発表された。

 研究チームは、乳児の聴覚測定と同じやりかたで、小さなマイクを外耳道に入れ、特定の音を聞かせて、内耳から発する「耳音響放射」と呼ばれる小さな音を測定した。耳音響放射は、内耳の感覚細胞が音を神経への信号に変換する際に振動して生じたもので、単なる音の反響ではなく、感覚細胞が特定の音に反応した結果が反映されると考えられている。

 測定の結果、左右の耳音響放射には明らかな違いがあり、右耳は言語のように断続的なかちかちとしたクリック音に対し、より強く素早く反応、音楽のように連続的な音程(トーン音)に対しては、左耳が強く早く反応していることが確認された。

 脳の聴覚中枢にも左右の違いがあり、言語や会話などは左脳が、音楽には右脳が反応しているとされ、左脳は右耳、右脳は左耳を制御している。研究チームは、左右の耳の違いが左右の脳の違いを助ける役目を持っていると推定しており、「人工内耳の移植など一部の外科治療の基準にも変更を迫る発見」としている。

2004/09/10(読売新聞)

 

即ち、赤ちゃんに話しかける時には右耳寄りに、子守歌を聴かせるときには左耳寄りが良いのであろう、と思ったりしたのだが、自分の子どもはもう大きくなってしまい試しようがない。

と、思っている内に、フト、視覚障害者の勝新演ずる座頭市は、決闘の時には当然右手前なのだが(剣道では右利きでないと小手を簡単に打たれてしまうそうだ)、相手の話を聞く時に相手の正面を向くのではなく右耳を向けていたような気がするがどうだったであろうか。

 

これは右利き左利きとも関係するようだが、上記“healthクリック”によれば、

 

左利きの人の病気にも特徴がある。左利きの場合は睡眠障害や斜視になりやすく、聴覚障害になる確率は、右利きの約2.5倍。さらに、あらゆることを左手で行うような左利きの場合は、アレルギーや花粉症などの免疫系の病気になる確率が右利きの約2.5倍にもなるともいわれている。利き手によってかかりやすい病気にも違いがあるわけだ。

 

と言うことである。

ここで、我が家の例を考えてみたら、長女は生まれながらは左利きだったが、当時は、お稽古事の習字、そろばん、等に不便であろうということで、矯正してしまったが、彼女の下の娘はまだ、2才なのだが、実に矯正など思いもよらないほど、余りにも極めて自然な左利きなので、親は左利きで行くことにしたそうだが、実はアレルギーがとても酷く、可哀想である。改めてじっくりと“お守り”をしてみよう。

 

 

2.絶対音感

 2−1.ローレライ

 

さて、聴感の事となると、“専門家”が言うところの“俗説”的に考える場合に外し得ないのが、最相葉月氏の『絶対音感』(小学館 1998年)である。これはベストセラーにもなったので読まれた方も多いと思う。なぜ、敢えて、“俗説”的としたかと言えば、再びWikipediaに依れば、

 

日本で「絶対音感」と言う言葉と概念を一般に定着させ、ベストセラーにもなり、収められた逸話に関しては興味深いモノが多いが、今では、信憑性の点で疑問視する声もあり、また学術的な裏付けがほとんど行われていない”と言うことで、「誤った概念を世間に吹聴、定着させた」として、批判する声も多い”ようです。

 

と、あるが、これも右脳左脳問題と同様に「学術」がこれらの裏付けをしようとする意図自体が元々無いのか、できないのであり、“大多数の研究者”の無い物ねだりの、“批判”としか思えない。非常に興味深い本である。

私としては「批判が多ければ多いほど、むしろ真実に近い」のではと思っている。無視、無知、黙殺こそ一番手に負えないのである。

 

 更に、Wikipedia絶対音感そのものについて見てみると、何と、実に戦前に遡り、「昭和14年頃にはピアニスト笈田光吉の呼びかけに軍人が呼応し、全国民が飛行機など機械音に敏感になるため普及活動を展開し、日本帝国海軍の対潜水艦教育、大日本帝国陸軍の防空教育で採用されたが昭和19年には中止された」と言うことである。

 

ここで、2005年に公開された映画「ローレライ」を見ているとき、何か引っ掛かっていたのだが、上記の話しでハッタと得心した。映画「ローレライ」をご覧になったかもみえると思うが、簡単なお話は、

                      

第二次世界大戦末期の194586日、広島に原子爆弾が落とされた。続く本土への投下を阻止する為、海軍軍司令部作戦課長の浅倉大佐によって、ドイツから秘密裡に接収した驚異的な戦闘能力を備える伊号第五〇七潜水艦、通称ローレライの艦長に抜擢された絹見少佐は、先任将校の木崎ほか、軍属技師の高須や特殊潜航艇“N式潜の正操舵手として配属された折笠一曹ら、わずか70名の乗組員と共に、アメリカ軍基地のある南太平洋上・テニアン島へ向けて出撃する。

ところがその途中、N式潜に搭載された戦闘海域の海底地形や船隊配置図を立体的に視覚化出来る超高感度水中探索装置ローレライ・システムが、ナチスに人種改良された日系ドイツ人少女・パウラの能力によるものだったことが判明し、艦内に不穏な空気が流れ始める。

そんな矢先、2発目の原爆が長崎に投下されてしまった。そして、それを機に高須を始めとする一部の者たちが、アメリカと取り引きした東京の浅倉の指示の下、ローレライを占拠。日本新生プランを掲げ、アメリカ軍にローレライを供与しろと言い出した。命に背けば、3発目の原爆が東京に落とされてしまう!しかし、絹見は日本人として、祖国に残して来た愛する者たちを守る為、最後まで戦うことを決意。

高須らを鎮圧すると、日本を存亡の危機から救うべく、独自の判断でテニアン島へ向けて進撃を開始するのであった。待ち受けるアメリカ海軍太平洋艦隊。パウラのローレライ・システムを発動させ、爆雷を避けて邁進するローレライ。

果たして、原爆を搭載したB―29が離陸した瞬間、一気に浮上したローレライは、見事、爆撃に成功するのであった。だがその後、切り離されたN式潜に乗っていた折笠とパウラの生存以外、再び潜航したローレライとその乗組員たちがどうなったかは誰も知らない。

http://www.walkerplus.com/movie/kinejun/index.cgi?ctl=each&id=36540

 

と言ったところだが、ここに登場する“主人公“とも言えるローレライ・システムは「船隊配置図を立体的に視覚化出来る」と言う設定で、中部電力開発の「音源の位置・大きさ・高低といった情報を特定し、また、同時に撮影されるデジタルカメラ画像上に音源が表示されるため、画像上の物体のどこの部分からどのような音が出ているのかが視覚的にわかる」という、「音カメラ」も真っ青である。

まあ、あくまでストーリー展開からなのか、或いは何かそれなりのヒントが有ったとは思うのだが、このシステムのコア(核)とも言うべき存在が、「ナチスに人種改良された日系ドイツ人少女・パウラの能力」なのである。彼女はこの能力を使うと死にそうにグッタリとするのだが、ヘリの低周波音を聞かされているだけで、グッタリとしてしまう私としては充分に「有り得る状態」と思ってしまうわけである。

 

作者は一体全体どこからこんな発想得たのか、もし、その資料があるなら知りたいと思い、以前に1000ページを超えるような本を読んだのが何時だったか忘れるくらい久方ぶりに原作の終戦のローレライ」(福井晴敏/著 講談社2002)を読んでしまったが、どうも格別の参考文献は無いようで、あくまで作者の想像力の産物のようだ。

 

さて、原作では、ローレライの“システム“(PsMB1)は「能力者が水中の対象物を感知した際に生じる脳波の乱れを、電気的に取り出して増幅。信号化された脳波に監視装置内の磁性体が反応し、感知対象物の方位・距離・速度はもちろん、その形状までを立体的に再現する。」と言うモノで、その「感知限界能力距離は半径百三十キロ」という事になっている。

第二次大戦時の主な軍用レーダーは大日本帝国海軍では対空で54海里(約97km)、合衆国海軍では対空の最高で150海里(約271km)、潜水艦用では20海里(36km)の時代に、潜水艦用(と言うのはローレライの能力は水中でないと発揮できない)で70海里(130km)と言う、ローレライの威力は驚異的な訳である。

 

潜水艦の決定的優位性は戦争中に限らず、今も、その隠密性に有るわけで、自らが音波を発するパッシブソナーでは優位性が失われるので、対敵には敵艦が発する音を聞き取るパッシブソナーに意味がある。が、最近の潜水艦はアクティブソナーをバカバカ発してイルカやクジラのソナーをボコボコにしてしまっているようだが。

 

最近の近代的ソナーを備えた潜水艦を舞台とした映画は別として、第二次大戦ころまでを舞台とした潜水艦映画では、もちろんこの作品もそうだが、何という役目なのか解らないが、ヘッドホーンと言うよりむしろレシーバーを付けたソナー替わりの“探音者“(原作では「水測士」とあるが、辞書には載っていない)が、緊迫した場面で、艦長からまずは敵か味方か、敵なら船種や距離を判別するよう求められ、襲ってくる場合は、近づいてくる距離を言い上げている場面が必ずと言ってもいいほど出てくる。

実に、この“探音者“の役目こそ、当に「日本帝国海軍の対潜水艦教育」が育成しようとした人材なのであろう。今の低周波騒音被害者にとってはピッタリの役目かもしれない。従事すればきっと死ぬほど辛く、疲れるであろうが、間違いなく、かなり優秀な成績を収めるのではなかろうか。

 

と言うことで、「ナチスに人種改良された日系ドイツ人少女・パウラ」の辛さ、疲れ具合は更なる大きな要因も多々あり、筆舌に尽くしがたいモノであろう事は、“筆に尽くした“作者の言葉以上に解るような気がする。

今の、低周波騒音被害者の“資質”も戦時中ならそれなりに“使い道”が有ったわけである。多分、飛行機はもちろん戦車や列車が近づく音なども良く察知したはずである。平和な時代には単に音に苦しむだけの存在なのであろう。

 

と、思わず長々と述べてしまったが、そう、低周波騒音被害者が低周波音を聞けば、あれだけ“おかしく”なるのだから、間違いなく相当な「脳波の乱れ」が有るはずである。この「乱れ」こそ注目すべきであると考える。

 

 

 2−2.音階としての音

 

と、話しが少し外れたが、「絶対音感」の中の挿話で、絶対音感の持ち主はパトカーや救急車のサイレンの音などはもちろん、巷の音が全て音階で聞こえてしまうと言う様な話しが幾つかある。音楽でもない音が我々いうところの“音楽みたい”に聞こえてしまうわけだが、いや、むしろ音楽ではなく、単に音階名として聞こえてしまい、「ながら勉強」はもちろん、癒しのための音楽がいわば朗読の様に聞こえてしまうわけだから敵わない。

ふと、思い出したが、中学の時の音楽の先生が時々、我々生徒に歌詞ではなくドレミの音階で歌わせたが、多分あんな風に聞こえるのであろう。音楽なら本質的に耳にと言うより脳に馴染むように音階が並べられているはずだからまだ良いのだろうが、喧噪の今の時代に、調子はずれの騒音までが音楽のように聞こえては、非常に辛いであろう。

 

で、私の姪の子どもで、数年前中学生でピアノが上手く、「絶対音感がある」という男子が居たので、「本当に音階で聞こえるのか」と聞いたところ、「そうだよ」と言って、ちょうどその時来た救急車の音を音階で言ってくれたのだが、具体的な音階は忘れてしまった。

 

で、音と音階の具体的な例を調べてみると、NHKの時報の「ポッ、ポッ、ポッ、ピーン」は最初の「ポッ」が440Hz、最後の「ピーン」が880Hzだそうで、一方NTT117」でお馴染みの時報の「ピッ、ピッ、ピッ、ポーン」は約415Hzと約830Hzだそうだから、下の表の音楽の音階と周波数によれば、NHKの時報は「ラ」で始まり、最後は1オクターブ上の「ラ」で終り、NTTの時報は「ソ」で始まり、最後は1オクターブ上の「ソ」で終るわけで、絶対音感者にはそれぞれ、「ラ、ラ、ラ、ラ」、「ソ、ソ、ソ、ソ」と聞こえるのでしょう。

 

音階と周波数(Hz

 

ファ

220.000

246.942

277.183

293.665

329.628

369.994

415.305

440.000

 

実際、楽器演奏者の多くは、基準音となる440Hzを認識できるし、そこを基準に音階を辿れば、その音以外の音であっても認識できるものも多く(後述の相対音感)、特に、一般に弦楽器奏者は、他の音に対してはそうでなくても、オーケストラが始める前に演奏者がてんで我勝ちのように鳴らすチューニングの音に用いる音については敏感であると言われているようだ。

より詳しくはそれなりのサイトへ。

 

 

2−3.音痴

 

音感のついでに音痴の話しにふれたい。ところで、痴呆と言う言葉は差別的感覚があると言うことで、政府は「認知症」としたのだが、どうも「知」は良くて「痴」はいけないと思っているらしい。たしかに、これらは病でないとすれば「やまいだれ」は取った方がいいのであろうが、結局は「障害がある」という意味であるはずで、認知症も要は「症」に一字に“障害がある”という意味を込めただけで、では、音痴はいわば、「音感に障害がある人」とでもなるわけだろうから、差別的感覚を無くすには、「音感症」とでもなるのであろうが、こっちの方は差別感はないかも知れないが、むしろ“決定的”な言い方のような気がするのは、私の単なる気のせいか。

 

で、音痴に関してだが、私の同級生の二人女性が、どうもそうらしく、と言うのは本人達が自覚しているのではなく、他人から言われるので、「そうだろう」ということである。そのためカラオケは歌わない。しかし、二人とも中学では吹奏楽をやっていた。

この内の一人は娘も音痴らしく、母娘で歌うと「上手くハモり、どうして私たちが音痴なの!」とよく言っているそうだ。因みにこの娘さんは大人になった今もマチュアのオーケストラでビオラを弾いる。と言うことは、楽譜も読めるし、音のズレも解るわけだ。

 

私は今は声が出なくなったのでサヨナラしたが、カラオケを歌っていて、自分で自分の音程がずれているのが判ると、ズズッと音程を修正するのだが、普通の人は大抵そうらしいが、音痴の人は多分それを感じないのではないかと思っていたのだが、上記の女性が言うには、「判っても直せない」のだそうだ。

 

そこで、音痴も全音にわたって、ずれていても感じない“真性音痴”と微妙に少し音程がずれる“疑似音痴”があるような気がするのだが、私は今だかつて真性音痴に出逢ったことがないので多分殆どの人は疑似音痴だと思うのだが、これは直せる。

音痴だと言う人のカラオケを直したことがあるのだが、その人には自分の声が聞こえていないのですね。音痴を直す第一歩は、まずは自分の声を良く聞くことなのである。これはヒョッとすると、今思えば、骨導音と耳導音の差異の区別と関係が有るのかもしれず、簡単に言えば、ほとんど耳導音のみの、自分で聞くと「何て変な声。私ってこんな声!」と思う自分以外の全ての人がそう聞いているテープレコーダーの声と相当量の骨導音を含む自分が話している時に出ているであろうと自分が思っている声の差異に気付けるかどうかもしれない。風呂場で歌を歌うと自分なりに上手く聞こえるのはエコーのせいもあるが、多分頭蓋骨に響き、骨導音的要素が加味され、自分の思いこみの声に近づくと言う理由もあるのではなかろうか。

 

と思っていたところ、微妙に音痴の気のある下の娘に、先日出来上がった結婚式のビデオを見せたところ、「私の声ってこんな声。おかしいなー」と言っていたので、私の推測もまんざら的外れではないと思う。

 

 

2−4.音痴のタイプ

 

ちょうど、こんな事を考えている時、「聴覚・ことば(キーワード心理学シリ−ズ )重野純 /新曜社 2006/03出版」をたらたらと眺めていたら、面白いと言うより流石「専門家」と思わせるような記述を見つけた。

音痴のタイプはやはり一括りでなく、

 

@    高低がほとんどなく、歌うと一本調子になってしまう人。

A    高低はあるが、全体に音程が外れる人。

B    音程が合っているときもあるが、時々外れる人。

C    低い(または高い)音域であれば、音程は外れない人。

D    正しいメロディーに対して音程が平行してずっと外れたままの人。

E    地声と裏声の境目で、音程が不安定になる人。

 

詳しくは上記書をご覧頂きたいが、私が真性音痴だと思うのは、@とAでB以下は音痴ではなく直せると思う。この中で、重野氏が述べている事で、興味深いのは、「メロディーの認知に必要な情報は、周波数の絶対値ではありません。周波数の比、すなわち音程が重要なのです。」と言うことで、これを「相対音感」と言うのだそうだが、これがあれば、音譜は読めなくても、曲を歌うことはできるのだそうで、当に私はもちろん楽譜を音階で読めない多くのカラオケ歌手もそうなのだろう。

 

 

 2−5.アイドリングの音階

 

では、具体的に私を地獄に陥れた駐車場のアイドリング音を検証してみようと思う。やっとの思いで、辿り着いた市当局による当時の測定結果の一部のピーク時のデータは以下のようである。私としてはもちろん若干の区別は有るモノの、一応まとめて「ウヮン、ウヮン、…」という騒音であったのだが…。

 

車種

第1ピーク音

第2ピーク音

第3ピーク音

大型車1

20Hz 

73dB

80Hz

55dB

 

 

大型車2台

25Hz 

80dB

40Hz

75dB

 

 

大型車+自家用車

100Hz 

80dB

160Hz

73dB

50Hz

70dB

 

心理学のウエーバ・フェヒナ(Weber-Fechner)の法則なるモノに依れば「人間がある周波数の音を聞いたとき、その2倍の周波数の音を聞くと音の高さが2倍になったように感じる」と言うのがあるそうで、これは実験によって確かめられた人間の特性のようである。

どの周波数がどの音階になるかは詳しくは、「音階と周波数の対応表」に依るのだが、ここでは詳しいことは省いて、当該周波数の“およそ”の音階を示すと、“およそ”と言うのは、「音叉の音440Hzがラ」以外は「音階と周波数の対応表」では数値がピッタリ対応しないからであり、そこが騒音の騒音たる所以でもあろうが。

それは、音階は平均律と言う、「オクターブ内の12半音を幾何級数的に等分したもの」であり、一方、低周波音測定は1/3オクターブバンドという今もってよく解らない等分方法であり、要は、基準値と等分方法が違い、多分どこかでは一致するのだろうが、用途の違いに依るモノであり、ここでは、我が無知と怠慢故、詳細は省いて、要は「20Hzの音はレとミの間の音でミに近い方の音である」と言いたいだけであるのだが。

 

音名

音階

周波数Hz

C

16.3515

C# /Db

 

17.3239

D

18.3504

D#/Eb

 

19.4454

E

20.6017

 

この伝で行くと、上記のアイドリング音は“およそ”以下のようになる。

 

車種

第1ピーク音

第2ピーク音

第3ピーク音

大型車1

20Hz

73dB

80Hz

55dB

 

 

 

大型車2台

25Hz

80dB

40Hz

75dB

 

 

 

大型車+自家用車

100Hz

80dB

160Hz

73dB

50Hz

70dB

 

もし私が絶対音感取得者であったなら、音階とのかなりのズレを感じ、多分極めて不愉快な感じで、それぞれ、「低いミとそれより4オクターブ上のミの“和音”」として、「ソとミの“和音”」として、「ソとミの少々厚みのある“和音”」として聞こえたのであろう。

 

 

2−6.臨界期

 

絶対音感と英語脳が似ている点に、その獲得には臨界期、簡単に言えば年齢制限があると言うことで、5才から7才までに獲得しなければならないとされている。

機能により臨界期には年齢のズレが有るようだが、不可逆的(簡単に言えば“その時でないといけなくて、後ではダメ”)であることには変わりない。

ただ、臨界期に臨界点がある点などは家禽類の「刷り込み(人間ももちろん動物の一生のある時期に、特定の物事がごく短時間で覚え込まれ、それが長時間持続する現象。刻印づけ、インプリンティングとも呼ばれる)」と似ているようだが、「刷り込み」が瞬間的に行われるのに対し、絶対音感の獲得には数ヶ月以上にわたる特殊な訓練が必要とされているようだ。

 

英語脳という形は別としても、普通の英語能力の獲得は数年の普通の学校の普通の訓練ではその獲得が難しいことは日本の英語教育の過去・現在を見れば明らかであり、“俗説である”英語脳説に触発されたわけでは決してないのではなかろうが、やっと、文科省も早ければ平成19年度から小学校でも英語教育を必修とする方針を固めているようだ。

発展途上の脳科学を教育の導入することにためらいが有るのは保守としては最もである。

 

しかしながら、既に1997年以前にも中教審で教育の危機が認識され、その最終形態の「ゆとり教育」でやっと息の根を止めた教育行政も、結果としての失敗を認めるわけではなく、それから10年たった今の審議状況を見ても、これまで文部省と直結していた様な“識者”は英語に拘わらず、これまでほぼ30年間以上に渡り子ども達の学力を落とし続けた責を認めるわけではなく、もちろん責任を誰もとることはなく、今もって本質とはかけ離れた論議を進めようとする文科省は、危機の中で更なる権力の拡大を狙っているのであろうか。

ならば、完全無責任を貫き通して、まずはひとまずやってみれば良いではないか。

 

 

子育ての難しさはその不可逆性にあろう。しかし、教育システムの回復にはダウンした3倍の時間が掛かるであろうが、不可逆的ではない。子ども達の前途は多難であろうが、救いがないわけではない。

 

どんな力もそれなりの力となれば間違いなく「特殊な訓練」とそれに耐えうる自らの努力が必要なのは英語に限らない。早期の英語教育が良いという意見があるが、私は疑問に思っている。

人間は言葉で考える。従って、まずは、思考・発想形態の確立が先決であり、それもしない内に日本語と英語の様に、単に言語と言うより発想形式そのものが大きく異なるモノを並行的に学ぶことは、過程的に大きな混乱をもたらす可能性が大きいのでは無かろうかと思う。しかし、結果的には全く新しい発想・思考形態が生まれる可能性は有るとは考える。

 

絶対音感の獲得には生得説、学習説があり、どちらも有力な実験データがあるようで、決定していないようだ。最近では遺伝説的なデータも出ているようで、多くの学問に於ける、法則、理論、要因などが一元論から二元論、そして、多元論に発展していくのと同じく、まさにこれもその道を辿っているようで、要は“よく解らない”と言うことではなかろか。

 

しかし、言葉一般に関しては、母語の確立は36歳と言われているので、この間の親からの繰り返し学習と言う学習説的要素は必須であろう。

 

 

3.低周波音感

 

 3−1.低周波音と耳鳴り

 

低周波騒音被害は基本的に騒音源が無くなるか、被害者が引っ越しでもしない限り続くので、結果として、被害は長期にわたる場合が多い。従って、多くの被害者には外因的にも、内因的にも何らかの聴覚障害が少なからず発症する場合が少なくない。

仮に問題が解決した場合も、騒音に対するトラウマ的状態を完全に忘れ去る人もいるようだが、多くは、その後も「音には非常に敏感になる」と言う後遺症的症状は残る。これが私言うところの低周波騒音被害からの“音アレルギー”の常態でもあるが。

 

特に被害者が高齢の場合は、耳鼻科的には耳鳴りと診断される場合が殆どである。しかし、私も高齢になったのか最近時々耳鳴りがする事があるが、低周波音と耳鳴りの音とは根本的に異なる。

一番の違いは、耳鳴りは、「ジーーー」(蝉の鳴き声と似ていると言われるが鳴り方は似ているが音質が違う)と頭の中で発生し、外から聞こえてくるわけではない。一方、低周波音はあくまで「ドーーー」とか「ウワーー」であり、明らかに周波数が低く、尚かつ体外から聞こえてくるのである。

即ち、低周波騒音被害と耳鳴りの根本的な違いは、聞こえてくる場所と周波数が全然違うと言うことだ。

医師に周波数の違いを説明すると、多分“低周波音性耳鳴り”などという「本当にそんなのがあるの?」というような“病名”を付けてくれる。

 

更に問題なのは被害が超長期にわたる場合は、VAD的に、これは耳管内の繊毛の損傷だが、蝸牛の損傷に到り、聴力を全く失うと言う事例がある。是非とも、専門家によるより広範なデータ収集を望みたいものである。

 

と言うことを前置きにして、当稿の本題である現実的な低周波騒音と右脳左脳問題について、「推論」してみよう。

 

3−2.低周波音感”獲得”の過程

 

私としては、低周波音感”修得”には、学習説(or経験説、環境説)も生得説も遺伝説も全てに可能性があると考える。即ち、

 

@まずは、何を置いても、低周波音の存在という外因があり、

Aそれに個人的な生得的な何らかの要因が反応し、

B低周波音の継続という状態が継続し、

C低周波音感獲得となる。

Dその間の脳の煩悶が肉体に反映し、これが低周波音症候群となる。

Eその後も完全に記憶が消え去ることなく音アレルギーとして残る。

 

と今のところ考えている。

 

低周波音感“修得“の直後からしばらく、上の過程で言えばB〜Dの期間になるが、この状態が永久に続くのかと思い、死を決意したことも何度もある。しかし、汐見先生の診断で一大決意をし、引っ越し、6年以上たった今、かなりの音アレルギー症状は残るモノの、音により死にたいとは思わなくなった。

従って、私の経験からすれば低周波音の呪縛から“離脱”するには、個人差に依るであろうが、“ほとんど“(と言うのは今の日本では完全に騒音から隔絶された状況を確保することは、自分や家族の社会状況からはもちろん物理的にも容易ではない)騒音と隔絶された環境で相当時間をかければ“離脱”できないことはないと思う。

 

水泳は随分前に試したが、沈んでしまったから、私は水泳技術は離脱してしまったのだろう。自転車はもう、何十年と乗っていないが乗れるであろうか。

低周波音感は、多分これらの身体技術的能力とは脳の異なった部位に記憶されているのであろう。

 

聴覚の情景分析  auditory scene analysis
聴覚系が、音波として与えられている手掛かりを、すばやく体制化し、環境に何が生じているかを把握する過程のこと。我々が耳を使って直接体験するのは、「家族の話し声」、「車の警笛」、「蛙の鳴き声」などの具体的な音であり、「音の大きさ」、「音の高さ」、「音の到来方向」などの要素的な性質ではない。我々は、「どんな音が、どこで、どんな風に鳴っていて、他の音との関係はどうなっているのか」を瞬時に把握する。利用しうる物理的な手がかりの大部分が、左右の耳に与えられた気圧の時間的な変化にすぎないことを考えると、これは驚異的な働きである。聴覚系のこのような働きが、聴覚の情景分析である。耳に与えられる音響信号を、時間−周波数の座標における音エネルギー分布の濃淡(スペクトログラム)として表してみると、異なった音が混じりあっている場合にも、音と音との境目が常に明確に示されているわけではなく、音の存在する範囲が重なっていることすらある。聴覚系は、これを、人の話し声や、楽器の音などの具体的な音として体制化することになる。この際に、一つの音源から発している音の時間的なつながりに対応する「音脈 auditory stream」、および、一回の音発生に対応する「音事象 auditory event」などの主観的なまとまりの単位が生ずる。この際に、種々のゲシュタルト原理が働く。その中には、調波性(倍音関係)を持った成分がひとまとまりに聴こえやすいなどの、聴覚特有のゲシュタルト原理も含まれる。音韻知覚などにおいては、知覚学習も体制化に大きく影響する。1970 年代に始まった聴覚の情景分析の研究は、ゲシュタルト心理学の影響を強く受けている。ただし、さまざまな体制化の原理が、生物が環境に適応する過程である進化、学習によって生じた、との考えかたを重視する点で、それ以前のゲシュタルト心理学に対して一線を画する。

 

3−3.低周波音感”獲得”の脳の学習的過程

 

低周波騒音被害者の低周波音感”獲得”までの脳的過程を学習説(or経験説、環境説)的に推論してみよう。

 

「ドヮーーー」とか、「ウワン、ウワン、…」という音を、主にその継続性のため、耳が「音楽のように連続的な音程(トーン音)に対しては、左耳が強く早く反応」する事により、本来音楽ではない騒音を“あたかも音楽的に聞いてしまう”と同時に、か、あるいは、そう言った状況が続くためにか、脳までが“「音楽」のように”判断してしまい、本来音楽ではない騒音を音楽と“誤解“してしまい、反応・処理をしようとするのではなかろうか。

 

しかし、あくまで騒音は騒音であり、所詮音楽ではない音を、頻繁に、かつまた、長時間継続的に聴取せざるを得ないと言う状況が続くことにより、流石の脳も本来の音楽とは異なった「音」を“音楽”的に処理をさせられている事に気付き、脳の確信的混乱が始まる。

 

この、脳が気付くまでの期間が潜伏期間であり、脳の確信的混乱状態が仮面鬱病的に現れた諸症状が低周波音症候群ではなかろうか、と言う仮説を立ててみたい。

 

もちろん、この潜伏期間は、騒音源の強さ・音質と受音者側の感知の個体差により、現時点に於いてはランダムに千差万別であるのは当然である。

ひとまず、現時点としたのは、騒音源の数値化は容易であろうが、個体差の感覚認知度の数値化が容易ではなかろうと考えるからであるが、もし、それが可能になれば、数値化・数式化の好きな“科学者”としても追試が可能になるわけだからおもしろい状況になるのではなかろうか。しかし、これには何時実現するか解らないような各界の共同研究を待たなければならず、当面現実的には有り得ない状況ではあるが。

 

 

3−4.低周波音感”獲得”の脳の生得説的過程or“低周波音神性説”

 

と言うことで、低周波音感の修得には“学習(させられ)説”(or経験説、環境説)が必須であることは明白であるが、それのみでないことは、同じ環境or似たような環境にあっても、だれもが低周波騒音被害者となる訳ではないことにより明白である。

ほぼ同じ状況に有るはずの家族でさえ被害者と無被害者がいると言うことは個々人の生得的(遺伝的)要因を考えざるを得ない。

 

低周波音は普通の音響的には、迫力を増す効果が大である。それは映画をTVで見る場合と映画館で観る場合や、音楽をラジカセと大型のステレオ装置で聞く場合を比較してみれば一“聴“瞭然である。

因みに家庭用のステレオ装置のスピーカーでは低音部は4550Hz程度までを再生できるのが一般的である。TVも最近の大型化に伴いスピーカーも良くなったのか、高音低音ともにかなり良い音が出るようにはなったが、

 

因みにNHKに確認したところAM放送では5060Hz7500HzFM放送では5060Hz20000Hz範囲内の音はカットしないで送信していると言うことであるので、超低周波音は絶対聞こえないモノの、機器によっては低周波音部分の半分くらいまでは聞こえるはずではある。

しかし、メーカーにちょこっと確かめたところ、オーディオ機器は別として、TVの再生音声周波数帯は機器やメーカーによる差異はあるモノの、5015000Hzくらいで、実際に聞こえそうなのは、20012000Hzくらいのようであり、基本的にはTVでは低周波音は聞こえない。

 

と話しはずれたが、生得的(遺伝的)要因を考えるには、人類の出現時からの音と人間との関わりを想像してみる必要があり、今から180200万年の昔に遡るわけである。そのころの雰囲気を映像的に一番上手く表現しているのは1968にアメリカで公開され、日本では10年後の1978に公開されたスタンリー・キューブリック の映画「2001年宇宙の旅」の冒頭シーンの「遠い昔、ヒトザルが他の獣と変わらない生活をおくっていた頃」というのがピッタリであろう。

 

そのころの音と言えば、日常的には、まずは、「自然の音」か「動物が移動に伴って発する音」か「鳴き声(人間の声も入るのだが)」くらいだったであろう。そして、最も重要であったのは家族や仲間の意志の疎通としての同類の「鳴き声」であったろう。それに匹敵するほど重要なのは、そうではない人間や動物の“音”であったろう。これは敵か味方か、要は、安全か否か、結論的には生死を判定する重要なモノであったはずだ。

 

一方、多くの自然音は、水のせせらぎ、風で木や葉が擦れ合う音、海辺では波の音くらいしかなかったであろう。しかし、時として、自然音の中には決定的に生死を左右するような可能性のある地震、地滑り、火山の噴火、洪水、津波、雷などの大きな自然現象(今で言えば自然災害)に、今で言う低周波音がともなっていた。この状況は今も太古も何ら変わりはない。

 

当時は当然、建物などの遮蔽物はなく、“動物密度“も低く、とにかく「音」そのモノ自体の存在が非常に少なく、言うまでもなく、今日の様に喧噪による「マスキング」は無かったであろうから、相当遠くの音まで聞こえたと想像できる。近くなら人の気配も感じる事が出来たわけである。増して、低周波音ともなれば何キロも先のモノまで聞き取れたであろう。

 

昔から常時低周波音を発し続けていたモノとしては、海の波と火山活動と滝くらいで、それらが古代から神として崇められ、あるいは魔物として恐れられていたのは、こういった事情によるモノではなかろうか。さらには、太古ではなく、古代の巫女が持つ低周波音感から、あるいは長老が先祖からの言い伝えか経験により、大災害の危機を低周波音から感じ取り、予知し、逃げるように宣い、一族を絶滅の危機から救ったなどと考えれば、非常におもしろい訳で、こういった説が有るはず、と考えて、ネットで検索したのだが、ヒットしない。

となると、これは“新説”なのかしら? ではこれらをまとめて、ひとまず、“低周波音神性説”としよう。

 

しかし、まー、これらは今日宏観異常現象(こうかんいじょうげんしょう)」と呼ばれるモノで、地震が発生する際の前兆現象として、動物の異常行動や地下水、地鳴りなどが起きることで、「本来民俗学や広義の社会科学(人文科学)における伝承や迷信として分類されるものであり、これらの原則を逸脱して感覚的に論じることは厳しく戒められなければならず、これらの多くには何らの科学的な根拠や裏づけ、信頼性などが認められている訳ではないという点を、まず理解しておく必要がある。」そうだ。

しかし、東海地震が直撃する可能性が最も高い静岡県地震防災センターでは「このような前兆現象に関する情報を幅広く県民の皆様から収集し、地震の予知に役立てようというのが宏観異常現象収集事業です」※として、真剣に、その情報を収集している。

被害当事者としては、映画「(新)日本沈没」の何とか大臣の台詞の「確率と再現性」の科学に頼って、「分母が大きいから限りなくゼロに近く心配ない」などと言っている人は絶対に宝くじを買わない人だ。

 

確率は例え分母が幾つであろうとも、最終的には自分が分子の1になるかどうか、即ち、「当たりかハズレか」の“二分の一の確率理論”に基づいている。この自己中心的“二分の一の確率理論”無くしてダレが一等当選確率10,000,000分の1のジャンボ宝くじの夢を買うであろうか。地震の場合は当たったら悪夢ではあるが。

現在、科学的で無いが故に科学的でない等とは言えない。今日の非科学が明日突然科学の常識になるかも知れないのである。

 

宏観異常現象

http://www.e-quakes.pref.shizuoka.jp/data/koukan/

 

と、話しがずれたが、では、彼女or彼の音感は、一体どのくらいであったのかと考えてみると、ヒョッとして、象並みだったかしれない。

 

象の長距離コミュニケーション

 

象は足を通して低周波をキャッチすることができることも、最近発見された。ゾウの足の裏は非常に繊細にできていて、そこからの刺激が耳まで伝達される。かれらはこの音を、30km40km離れたところでもキャッチすることができる。
 この領域は、まだ研究が始められたばかりだが、雷の音をキャッチしたり、こちらでは雨が降っていると認知できるように、40kmのゾウの存在も認識できるのではないかと考えられている。

 

象の長距離コミュニケーション 坂本龍一のELEPHANTISM

http://www.goodpic.com/mt/archives2/2005/05/elephantism.html

 

今でも、アフリカやモンゴルの草原の狩猟民の中には、視力5.0とか10.0等と言う人がいるそうだから、視力1.5からすれば36倍以上の視力と言うことになり、聴力とは単純に比較できないであろうが、それに近いモノがあるとすれば、当時の人類は当然素足で歩いていたことでもあるから、ヒョッとしたら、現代のゾウの能力くらいは持っていたのではなかろうか、と、思っては見たのだが、日本一有名な忍者ハットリくんの聴力は因みに「8.1キロ四方の音を聞くことができる」※そうで、どうも、とても象には敵わないようだ。

 

ハットリくん徹底解剖

http://homepage2.nifty.com/hattorido/meikan/prof.html

 

時代とともに、人間こそ増えたモノの、中世になって教会の鐘が何キロも先まで鳴り響く時代まで、恐らく人類の出現時に近い音状況は続いたのであろう。その後も近代文明が始まる19世紀までは同じ様な状況が続いたのであろう。

 

因みに私が低周波音感知能力”絶好調”の頃で、道路際の室内にいて、約300m先からダンプカーの近づいてくる走行音が聞こえた。

 

などと、考えていたら、「聴覚心理学」と言う分野の方のズバリの文章があった。

 

聴覚が飛躍的な発展を遂げた時期は二つあります。一つは、2億年くらい前に哺乳類が出現したときです。このころの哺乳類は、小さく、弱かったため、大型の爬虫類が活動しない夜に、昆虫や植物などの食べ物を取るような、夜行性の動物でした。初期の哺乳類は、必要に迫られて、鋭い嗅覚と聴覚とを獲得したのではないかと考えられます。闇の中でも、敵、餌、仲間などを見つけるために、嗅覚と聴覚とは大変重要です。聴覚に関しては、暗がりで敵や異変に出会ったときに、どの方向で何が起こっているのかを素早く感知する能力が、今日の人間にとっても生死を決することがありえます。闇の中に限らず、危険や変化を察知することは、聴覚の重要な役割であり、哺乳類が出現したときに、この機能が飛躍的に発展したようです。

人間が爬虫類、とりわけトカゲなどに対してこのような嫌悪感を抱くのは哺乳類創世記においてまだ健在だった恐竜は哺乳類の祖先の捕食者であり、それ故といわれている

 

人類が言葉を獲得したときにも、聴覚の飛躍的な進化があったと考えられます。この過程は数百万年前に人類が出現した段階で、既に始まっていた可能性があり、150 万年くらい前に現れた原人(北京原人など)の段階では、彼らが集団で移動しながら狩猟、採集に基づく共同生活を行っていたことから、言葉による基本的なコミュニケーションが確立していたのではないかと考えられます。

 

中島祥好 「耳と心 聴覚心理学入門)」

http://www.kyushu-id.ac.jp/~ynhome/JPN/Auditory/Book/mimi01.html

 

と言うことである。心理学的な聴覚へのアプローチは少ないので是非とも頑張ってほしいモノである。

 

低周波音の持つこの「命の危機」への予感が決定的記憶として人類のDNAに残っていたとしても不思議ではない。

 

低周波音感を失うと言うことは、喧噪と低周波音源に満ちた今日の時代に生きる人間としては生きやすさという点では進化であろう。

しかし、人工的な低周波音発生物であるモーターが出現したのは19世紀前半、エンジンの出現は19世紀後半になってからで、200万〜400万年の昔に遡る人類の歴史のスパンから見ればつい最近のことであり、車のアイドリング、ボイラー、空調室外機、大型換気扇などの騒音源が身近な住環境に登場したのは“今”のことであると言えよう。

ほんの60年の私の歴史から見ても自動車を始めて購入したのが30数年前、エアコンを自宅に付けたのが30年ほど前で、ほぼ私たちの世代の歴史とともに身近に低周波騒音源が増えてきたと言える。

さらに最近業界が普及に励んでいるエコキュートによる被害者が出始めていると聞く。確かにこれは音圧は小さく、それ以外の音がしているような昼間だったらまず聞こえないと思う。しかし、問題なのは、本来なら完全静寂無音であるはずの深夜にモーターを稼働し続け、低周波音を発し続けると言う点である。

騒音が小さいと言うことで、恐らく難聴などの肉体的被害は無かろう。しかし、もしその騒音に気付き、「嫌だな」と思い始めたら、長時間の受け身的騒音は如何に小さかろうと、“耳のダンボ化現象“により、実際より大きく聞こえ、精神的に参ってくるはずだ。

従って、エコキュートによる被害は敷地のそれほど広くない閑静な住宅街に起きると考える。

 

 

4.脳と音

4−1. 音の入り口(聴覚系の感覚器)

 

まずは音は人間にどのように伝わるのか、私のためにwikipediaを参考におさらいをしてみる。もちろん私も脳を一つは持ってはいるが、断るまでもなく、脳のことを知るわけではないので、文末には全て「と言われている」が付く。

聴覚系の感覚器

外耳から聴覚皮質まで

外耳は耳介(じかい:いわゆる耳の部分)と外耳道からなる。耳介は、パラボラアンテナのように空気中を伝わる音声の音圧をあげて集音する機能を持つのみならず、その複雑な形態から、音源の方向によって音響伝達特性が変わることで上・前後・左右といった音源定位に役立っている。外耳道は約2030mmの長さを持っており、鼓膜で終わる。

画像:Gray921 ja.png中耳は、鼓膜、つち骨、きぬた骨、あぶみ骨の3つの耳小骨(じしょうこつ)よりなる。空気振動による鼓膜の振動が内耳のリンパ液に伝わる際、3つの耳小骨を伝わることで、鼓膜とあぶみ骨の面積比の関係とてこの原理により圧力が約22倍に上昇する。つまり天然の物理的変圧器の役割を果たしている。ベートーベンは耳小骨の動きが悪くなる耳硬化に罹患していたといわれている。

ちゅーやんのページ内耳は側頭骨の中に位置し、直径1cm程度で2回り半巻いておりカタツムリのような形をした蝸牛(かぎゅう)、三半規管、前庭よりなる。このうち、聴覚に関わるのは蝸牛で、ここに音の振動を神経(蝸牛神経)に伝えるための構造がある。外耳、中耳はここへ振動を伝えるための構造に過ぎない。他方、前庭三半規管は平衡感覚を受容するための器官である。

で、蝸牛だが、内部が3層構造になっており(上から前庭階、蝸牛管、鼓室階)それぞれリンパ液などで満たされている。あぶみ骨の振動が蝸牛の入り口の小窓(卵円窓:らんえんそう)に伝わり、内部のリンパ液を振動させ、コルチ器を載せた基底膜を振動させる。このとき最も強く振動する基底膜の位置が音の周波数により異なり、高い音の方が入り口付近、低い音の方が入り口から遠い位置の基底膜を振動させる。この振動がコルチ器のうちの内有毛細胞の不動毛を変形させ、イオンチャンネルを開かせ細胞を電気的に興奮させ、内耳神経へと伝えられる。

このような基底膜の物理的な周波数特性に加え、内有毛細胞の特定の周波数への「チューニング」という生物的な要素により、我々は音声認知の初期から、周波数情報を神経細胞興奮という情報に変換しているのである。

基底膜の周波数特性を発見したベケシーGeorg von Bekesy)はその業績で1961年のノーベル医学生理学賞を受賞している。

ここらになるとなかなか読んでも良く解りませんので、もっと解りやすい説明とか図を探したのですが、ひとまずは見つかりませんでしたが、蝸牛についてのおもしろい記事を見つけました。

 

Ear's spiral responds to bass耳のらせんは低音に反応する)

 

蝸牛がなぜらせん状になっているのかという事については、音の導管が直線状でもらせん状でも周波数分解能力に差が無いので、「空間を節約するためにらせん状になっている」とされてきたそうだが、今回、アメリカ、バンダービルド大学のマノーサキ博士らは、蝸牛殻のらせんの外側の縁で音波の周波数に焦点を合わせているのだが、特に低周波音の検出に対して、振動に対して敏感な細胞の働きをより容易にしているとしている。

アナーバーのミシガン大学のカール耳の構造が専門のGrosh氏は「研究者が正しいなら、耳は私たちが思っている状態より精巧であり、私たちが細胞生物学から一歩退いて、蝸牛殻が融合システムとして稼働するとみなす必要がある」と述べている。

また、蝸牛管には渦巻き構造により、らせんの奥側で捉えられる周波数(低音)が、入り口で捉えられる周波数(高音)に比べて20デシベル増強されている、としている。博士らは、液体で満たされた渦巻き状の管を数学的にモデル化し、色々な周波数の混じり合った音の伝搬の様子を数学的に解析した。

20デシベルというのは普通の会話と掃除機の音の差だそうだ。
また、Grosh氏は20dB増強(boost)されていると言うことは人工内耳の設計にも重要で、らせん状で小型化された機器を作ることは比較的容易であると言っている。

 

 

 

 


 年齢が高くなると音を感知する能力も低下するのですが、低い音がより聞こえやすいのは、この事実によるのかもしれません。

Biology News  Ear's spiral responds to bass

http://www.bioedonline.org/news/news.cfm?art=2414

 

 

その後、内耳神経に伝達された神経興奮は背側と腹側の蝸牛神経核を経て、ほとんどは対側の(一部同側の)上オリーブ核に中継され、外側毛帯、下丘、内側膝状体を経て大脳の聴覚皮質に伝達される。

 

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%B4%E8%A6%9A

sound 音の知識

http://homepage2.nifty.com/arumukos/unnk/unncssry/snd.html

 

4−2. 脳の音の感知

さて、その大脳皮質だが、その部位によって役割や働きを分担しあっており、これを機能局在と言い、言語野、視覚野、聴覚野などの呼び名は、このような機能を元に分類された、大脳皮質の「部位」を表したものである。

詳しくは、ブロードマンBrodmannの大脳地図(右図)というのがある。これは20世紀初頭にドイツの解剖学者ブロードマンが提唱した大脳皮質の区分地図のことで、大脳皮質を顕微鏡で調べ上げ、構造的、形態学的解析による結果の成果で、彼の研究成果は、20世紀後半の生理学や解剖学から見ても基本的には正しいことが明らかになっており、脳生理学的な解析による区分の表現にも都合が良いので、現在でもよく用いられている。

ブロードマンの脳地図では第1野から52野まで番号が付けられているが、4851野が欠けているため実際には48領域となっている。

図のブロードマン地図は、私には最初横から見たモノだろうくらいは解ったが、どちらが前なのかチョット自信がなかったが、詳しくは、「ヒトの大脳半球の上外側面で、左の大脳半球を外側から見たもので、図の左が前、右が後ろ、上は起立した状態の上、下は起立した状態の下になる。」と言うことで、要は、自分の脳を左側の横の方から見たモノと思えばいい訳で、図の左下の方に鼻とか口が有ることになる。

で、音を認識するのは大脳皮質の部位の、一次聴覚野と呼ばれる側頭葉の横側頭回(側頭葉の根元の外側溝側の部位)に位置、図の41,42に極在している。また、初期聴覚野では蝸牛の基底膜における周波数配列に対応して相対的位置関係が再現されており、トノトピーと呼ばれる。ピアノの鍵盤のように右から左へ並んでいるんですね。

ちなみに、一次視覚野の第17野は、図の右端、後頭葉の鳥距溝の所に位置しており、視覚連合野に接している。目から入った情報を可能な限り、焦点距離を長くするなど本当に脳は良くできていると思わざるを得ない。

 

 

4−3.記憶の仕組み

 

では、こうして、脳が認識した音の情報は、人間の記憶に残るのであろうか。そこで、音に限らず脳の記憶の仕組みを超簡単に超適当におさらいしてみよう。

 

脳の記憶の仕組みという様なダイナミック(動的)な活動を、生きている人間の頭蓋骨を硝子張りにして、脳の活動を外から観察したり、むき出しにして観察できるわけではないので、そうそう解剖学には解明できない。

 

「頭の良くなる系講座」と言う多分私のような超初心者のためにも解るように書かれたサイト(※)を参考に、さらに自分で自分に説明する目的で書き直してみたのだが、元々、サイトにも「脳の働きは解明されていないから、正しい保証はないんだけど・・・。それでもいいなら読んでみてください。」と断り書きがあるくらいで、そのまま頂く。

 

記憶にとても深く関係している脳の部位に「海馬」(かいば)というのが有る(同じく文末には「らしい」が全て付くが面倒なので省く)。海馬も最近では結構有名になっているが、私なんぞ最初は海にいる「トド」かと思っていた。トドは漢字では「海馬」と書く。ついでに今では有名になった「トラウマ」も最初は「虎馬」と思っていたくらいだからおよそ知るべしである。

 

: 海馬体

脳を底部から見た図(上が前頭葉、下が後頭葉)。海馬は外部からは直接見えないが赤色でその位置を表している

で、一応整理してみると、大脳皮質側頭葉の内側にあり側脳室下角底部に突出した大脳辺縁系の一部。左右に一対ずつ存在し、ヒトでは直径一センチ、長さも五センチほどの器官である。場所は

 

 

 

 

@        新しい情報は、海馬にある[要素に反応する神経細胞]を中心に電気が流れ続け、短期記憶となる。

A        海馬にある[要素に反応する神経細胞]に何度も電気が通ると、レセプター(受容体、receptor)という、生物の体にあって、外界や体内からの何らかの刺激を受け取り、情報として利用できるように変換する仕組みを持った構造が増えたり、神経伝達物質量が増えたりする。その結果、海馬に流れる電気が長期にわたり強く継続するようになる。これをLTP Long Term Potentiation、長期増強)と言う。

B        しかし、海馬にある[要素に反応する神経細胞]に電気が通らないと、電気はいずれ消失し、レセプターや神経伝達物質量もやがて元通りになり記憶は忘れてしまう。

C        一方、強いLTPが発生したり、繰り返されたりすると、海馬にある[要素に反応する神経細胞]を中心にシナプスが伸び、形成された神経回路は、小容量で可塑性の高い海馬から大容量で、可塑性の低い大脳皮質を中心とした脳の各箇所へ移動(転写)される。

D        海馬に情報は残らず、大脳皮質の側頭葉を中心とした部分に古い神経回路が形成され、一生覚えている情報となる。

E        これに要する期間は半年から2年程度と言われている。

※「頭の良くなる系講座」 http://www.slg.ne.jp/category/h10.html

※池谷裕二のホームページhttp://gaya.jp/research/hippocampus.htm

 

と言うことなのだが、特に神経回路の形成に関しては、日本神経回路学会等と言うところでもただ今研究中の様で、回路形成に要する期間に関しても、他に具体的な記述を見つけることができなかったが、「古い神経回路が形成され、一生覚えている情報となる。これに要する期間は半年から2年程度と言われている」というここでの記述が、低周波音症候群発症までの潜伏期などと考えるとは非常に納得しやすい。

また、私や何人かの被害者の、「低周波騒音現場を去ってからも低周波音に敏感である」と言う、後遺症的症状(低周波音感知能力が落ちない)が「一生覚えている情報となる」とすれば納得がいく。

しかも、“低周波音感”が長い人類の歴史の中の太古の時代から、地震、火山の爆発、津波、山崩れ、雷などの自然災害とともに記憶として刷り込まれた本能的に持っている記憶と言うモノがあるとすれば、今更敢えて、神経回路を形成するまでもなく、単にその情報を呼び起こせば済むことであるが、余りにも古い記憶なので、完全に削除されてしまっている人もいるであろうし、仮にあっても呼び起こすのに掛かる時間が個人により差があるのは当然であろう。

 

と、進めてみて、で、どうすれば治るのかと言うことになるのだが、私は、低周波音のことを完全に忘れるようになるまで治らないと思う。

ひとまず、そう考えると低周波騒音被害の完治には、左脳に有るであろう低周波音感の記憶をパソコンならDEL(削除)キーを押せばいいのだが、脳の情報はどうもそんな簡単には行かないようである。

 

とひとまず、このくらいにして、「非科学的俗説」とされている「右脳・左脳論」的に低周波音感の修得を考えてみよう。

クドクドともう一度、低周波音感”獲得”の脳的過程を今度は、左脳・右脳と言う、器官としてではなく、左脳的・右脳的脳の働きとして、考えてみる。

 

騒音、雑音は、本来、脳的には、右脳が持つ「イメージ記憶、直感・ひらめき、芸術性・創造性、瞬間記憶、潜在意識」という無意識脳としての機能により、「無意識的に、高速大量に自動的に処理し、単なるイメージとして」一時的記憶として“聞き流し”的に処理してしまう音であり、また、本来そうすべき音なのである。即ち、騒音には色々な定義があるが、脳的には私は“右脳的に処理すべき音”を「騒音」と定義したい。意味を持たない音(人間の言葉も含めて)は低周波音に限らず、本来的に、“右脳的に処理すべき音”(=聞き流す音)なのである。

右脳で時間をかけて低周波音のイメージを)獲得すれば、(そのイメージは左脳にストックされており)「右脳の窓口である左耳を刺激してやると、(左脳に)眠っていた(記憶により)右脳は再び活動をスタートさせて」いくと言う図式はどうであろうか。

右脳左脳、右耳左耳と混乱する。間違っていたらゴメン。

しかし、低周波騒音の「現場」では、

 

@「物理的に騒音源から去り得ない(=「騒音源を絶つor引っ越す」ことができない」と言う状況と

Aその結果としての「騒音の時間的継続性」のため、

 

脳としては、左脳が持つ「言語的認識、論理的思考、計算、じっくり記憶、顕在意識」という意識脳としての処理をせざるを得なくなり、結果的に左脳的に「ゆっくり少量ずつ処理」せざるを得ない状況、いわば、一種の“学習”せざるを得ない状況となり、

 

さらには、

B騒音源を個人的にはもちろん、公的にも排除しがたい(orし得ない)という「コントラビリティの欠如」(=騒音源を支配できない)(※)によりもたらされる心理的要因が無力感をもたらし、右脳の無意識脳としてのリラックス感が否応なく決定的に抑圧され、ストレスとして発現し、様々な症状を呈するのではなかろうか。

 

    「近隣騒音をめぐるコントラビリティの諸相 公的介入の諸限界と被害者運動の可能性の検討を中心に」 大門信也(2005/10 法政大学 大学院紀要)

 

 

こう言ってみると、この状況は何かに似ていると思わないだろうか。そう、「少しで良いから毎日勉強学習しなさい」と言われ、英語嫌いになってしまった子どもの場合とか、職場の上司による「言葉による暴力」とかでノイローゼや鬱になってしまう状況である。

 

 

低周波騒音被害が語学の学習と似ているのは、“学習の進んだ”低周波騒音被害者は低周波音を実に様々に事細かに具体的に低周波騒音を「言葉」で表現しようとし、またする点にもある。しかもその表現は千差万別であるにもかかわらずそれぞれに中々に上手く表現している。しかし、それは一般の人にはなかなか理解しにくい表現である場合が少なくない。それは、低周波騒音被害者達は単なる“音”をあたかも意味ある言葉かのように脳が処理しているからではなかろうか。

 

この本来あるべき音の処理ができずに苦悩する脳の過程が低周波音症候群として現れ、その結果が“音アレルギー”となるのではなかろうかと考える。

 

 

もちろん、現在の低周波音“専門家”はこんな事は調査研究していないであろうし、元々そういった発想もない様であるから、当然ながら、私の論には、いわゆる、騒音関係からの学術的or科学的な裏付けの類は何ら無い。

 

そもそも、脳の研究で当初から最も寄与しているのは精神障害者の調査研究なのだが、もちろん、これは脳に限ったことでなく、悲しいことであり、仕方ないことだが、障害者、或いは被害者という、即ち、普通とは違う状況に陥った状況の人間(でなくても良いが)の存在があって初めてその被害に対する調査研究が始まるのである。

こう考えれば、低周波騒音被害は脳と聴覚との研究には当に素晴らしい事例であり、私を含む低周波騒音被害者を精神、心理、脳、等の分野から、単なる“苦情者“として処理するのでなく、「素材」として、「モルモット」として、彼らの苦痛の症状を「科学的」に調査研究することにより、脳と聴覚の「神秘」に近づく素晴らしい成果が得られることは間違いないと考える。

 

しかし、これまでも何度も言っているように、そう言った発想は少なくとも現況の低周波音“専門家”達からは全く出ていない。恐らくそう言った発想が彼らの“専門”性ゆえに全く無いのか、あるいは、あくまで意図的に、徹底的に黙殺したいか、あるいは黙殺せざるを得ないと考えるしかないのである。

 

「脳一番BOOK  Science@Sugarhttp://www.sugar.or.jp/brain/

小説と心理学のサイト 「仔猫の遊び場」http://www.oak.dti.ne.jp/~xkana/psycho/

 

 

 

絶対音感や英語脳のような臨界期の点を考慮せずに、低周波音感知者もこれと似た経過「最初は右脳、その後は左脳」という経過を辿るとするとして、被害者として考えると言うより、思い出してみよう。

 

最初この「うざい」音は一体何だろうと思う(右脳でキャッチ)。それが度重なり、不快感から暗中模索し、少ないながらもこれまでの自分の持てる知識をフル回転させる(この時点で既にデータベース的左脳をフル回転させているはずであろう)が、結論はでない。それもそのはず、脳のどこにも元々データが無いのだから仕方ない。

 

この答えの出ない試行錯誤を、「数ヶ月以上にわたる特殊な訓練」と考えると、ちょうど低周波音症候群発症までの“一般的“な「潜伏期」に当たるとすれば、結構上手く符合するが、被害者の潜伏期は千差万別私の場合は数ヶ月は要しなかった。

 

その後も、解るも判らないも関係なく、否応なく、休むことなく低周波騒音の“特訓学習”は続く。これは、一種の洗脳と同じなのであろう。結果として、かなり“優秀な低周波音感獲得者”ができあがる、と考えるとなかなか図式としてはおもしろい。

 

技術的能力が必要となる、自転車に乗れるか、泳げるかなどには、今データが無いので何とも解らないが、自動車の運転技術が、かなり年齢が行ってからでも、時間と当然としてのカネさえ掛ければ修得できるように、“低周波音感”獲得の“特訓学習”には、多分、臨界点などはなく、年齢や個体状況の差により“修得”に要する期間は異なるであろうが、高齢になってからの低周波騒音被害者が多いことからも、低周波音感の“獲得”に臨界点が無いであろう事は間違いない。

 

“低周波音感獲得”は、絶対音感の獲得より遙かに“苦痛”の道を歩まねばならず、その“才能”には、今もって、生得説も学習説も遺伝説等と言う、説そのものもなく、まして、マニュアルも“教育機関”もない。ただ、“強制修得環境”が有るのみである。

 

もちろん産官学から見事に黙殺というより、以下のような科学的見地から実証的「説」など生まれようが無いのである。

 

 (低周波音の)短時間のばく露実験では(生理的影響は)明確でないという結論になっているが、長期間のばく露でどのようになるかということは実験もないし、結論づけることは難しいということが現状である。これを影響がはっきり現れるまで実験しようと思うと、まさに人間の人体実験になってしまうので、影響があった場合の回復が明確でない実験はできない。

 

 生理的や心理的と判断される苦情は非常に多岐にわたり、かつ個人差が大きい。人間へのばく露量(低周波音のレベル)と反応(生理、心理的影響度)とを明確に結びつけることはきわめて難しいのが実情である。

 

「資源環境対策 Vol.37 No.11(2001)」の「特集/低周波音騒音問題の最新事情」 

時田保夫(空港環境整備協会 航空環境研究センター所長)(肩書きは同誌発行時による)

 

 

 時田氏言うところの「人体実験」は「低周波音の長期間に渡る曝露により影響があった場合」「そのもの」に既になってしまったような被害者からすれば、バカにするにもほどがあると言いたい。

実験などするまでもなく、現実の目前に「被害」を訴えている被害者なる人間が厳として存在するのであるから、まずは「それら」をじっくりと「観察」することである。

「それら」をどこまで調べたかも表明することもなく、恐らく「それら」を「観察」することこそ、「知見」なるものであるはずと思うのだが、寡聞にしてその作業は行われておらず、当然の結果、積み重ねようとする明確な作業もないまま、あまつさえ法的な裁定という場において「知見がない」等と言う理不尽極まりないことを宣う。

 

と言うことで、低周波騒音被害については、実は、科学的な実験データは何もない。

 

 

3−2.DSM

 

もし、低周波騒音被害者の苦しみが、全て“単なる気のせい” ならば、感覚的な殆どの病は表面的に異常がなければ、“単なる気のせい”として、放置しておけるのではないか。むしろ、“患者”が訴える様々な症状にそれらしい病名を付け「病気」とし、診療費や薬代を取る近代医学は詐欺ではないか。などと思っていたら、何と、特に、このところ、「これも病気? あれも病気? れも病気? へー、そんなのも病気!」と言うくらい、チョット気分が悪ければ、何でも病気でそれらしい立派な病名が付き、その気になれば、ほとんどの人が病人と言えるような、何だかよくわからない新しい病名の精神の病がマスコミなどに登場しているが、これらは全てアメリカ精神医学会(APA)が権威あるマニュアルとして発行している『DSM』(Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders=精神障害の診断・統計マニュアル)に依るモノらしい。

低周波音症候群は未だにマスコミには出てこないが、DSMによる自己判断では、低周波騒音の御陰で、私は少なくとも、

@    イライラ感を押さえるためアルコールとタバコの摂取量が増えてしまったので「物質関連障害」

A    低周波音はもちろん、犬の鳴き声、子どもの叫声、近くのパートのおばさんが小判のごとく「ネジ」をジャラジャラさせる音が何時始まるかと怯える「不安障害」

B    不眠、過眠、概日リズム睡眠障害等の睡眠異常による「睡眠障害」

C    ストレスに対する不適応反応である「適応障害」

になっているとは思うのだが、一応、医学的には問題ない。

 

「こころの風邪」と言われる鬱病は未だに日本では多くの場合「詐病」呼ばわりさる場合が多く、社会通念、“会社”通念を恐れ、適切な処理をすることなく、結果、年間3万人を超す自殺者の最大最終的要因となっている。

幸いと言おうか、低周波騒音被害者の苦痛は医学界からも無視され、「詐病」の中にも入っていないので精神障害者とはされておらず、ありがたいと言えばそうなのだが、その“恩恵”をもたらしてくれているのは、低周波音“専門家”達が、低周波騒音被害者達を黙殺し続け、他分野、少なくとも医学や精神学の分野に支援要請を求めようともしない体質にある。

まー、しかし、そんな要請があろうが、なかろうが、それなりの認識があればその他の分野も無視はしないであろから、私としてはどの分野も同罪と断罪するしかないのだが。

 

 

 

 

 

4.専門家

 

4−1.特殊から一般へ

 

 

3−2.“専門家”は匿名 

 

“専門家”は低周波音関係ばかりでないのは百も承知で、最近では耐震偽装事件が記憶に新しいが、人の世の常として「人の噂も75日」で、一般的にはとっくに終焉を迎えてしまった様だが、一番肝心なことは、全然明らかにされることはなく、多くの人の記憶から消え去った感がするが、直近の出来事で、「タミフル異常行動死」において、以下のような報道があった。

 

担当医「関連否定できず」 タミフル異常行動死第1例

 

 インフルエンザ治療薬タミフル服用後に異常行動を起こして死亡した「第1症例」として2004年に報告された岐阜県の男子高校生=当時(17)=について、診察した医師が「タミフルとの関連は否定できない」とした意見が、販売元の中外製薬作成の副作用報告書に記載されていたことが7日、分かった。

 厚労省は「報告を受けた後、専門家の意見を聞き、因果関係は『否定的』とされた」としてきたが、専門家の氏名や意見内容を一切記録していないことも判明。因果関係の判断が逆転した経緯が分からないというずさんさに、遺族らからは「不可解な対応だ」と批判の声が上がっている。

 中外製薬が作成し、厚労省所管の医薬品医療機器総合機構に提出した副作用報告書によると、男子高校生は04年2月上旬、発熱のため医療機関で受診。インフルエンザと診断され、タミフルを服用後に突然自宅を飛び出し、国道のガードレールを乗り越え、トラックにひかれて死亡した。

 

200758日 (共同)

http://www.chunichi.co.jp/s/article/2007050701000789.html

 

記事で、厚労省は「専門家の意見を聞き、因果関係は『否定的』」とした「専門家の氏名や意見内容を一切記録していない」としているが、そんなことは「絶対」に有り得ないことである。それは、こんなに無名で、社会的にも全く問題になっていないような低周波騒音被害でさえ、汐見先生と低周波音被害者達が環境省に交渉に赴いた際(04/11/17)には、環境省は、「参加者の氏名を名乗らせ、録音を録っていた」事実からも明らかで、「一切記録していない」等と言うことは有り得ない事である。

これは「ずさん」ではなく、厚労省の“できればひとまずは黙殺”と言う意図的な態度としか考えられない。

 

そして、更に救いがたいのは、常に取材のために出入りしているはずのマスコミに、こういった行政の態度を糾弾しようとする姿勢がトント見られないことだ。今や己にとって都合の良いことだけを流し続け、それを右から左に流し続ける完全に政府のスポークスマンに成り下がってしまった御用マスコミに何が期待できるのであろうか。

これでは最近の若者の活字離れを憂える前に、中身の無さを自らがまずは憂えるべきではなかろうか。少なくともメールやブログは活字で書かれていることを忘れてはならない。

 

「騒音初学私考 3 被害者の実態から対策を 保団連、環境省と低周波音公害で交渉」

http://www.geocities.co.jp/NatureLand/9415/sikou/sikou6_koushou050103.htm

 

もし、上記の「専門家」達の中に下記の専門家達が含まれないとすれば、一体どんな“専門家”がいるのであろうか。

 

厚生労働省は30日、インフルエンザ治療薬「タミフル」の服用と異常行動の関連を調べている同省研究班の3人が、タミフル輸入販売元の中外製薬(東京)から寄付金を受けていたとして、研究班から除外すると発表した。これまでに明らかになっている主任研究者の横田俊平・横浜市立大教授らのほかに、データを分析していた文部科学省系の統計数理研究所の藤田利治・教授側に06年度6000万円が渡っていたことが新たに判明。このうちタミフルの研究に627万円を使っていた。

(中略)

横田教授や中外製薬も同省で相次いで記者会見。横田教授は「誤解を招いたのは遺憾だが研究は公平性が保たれている。研究を完成させるためにも続けたかった」。中外製薬は「寄付について厚労省は是認していたと思っていたので驚いている」と述べた。

 

20070330日(朝日)

http://www.asahi.com/special/070320/TKY200703300369.html

 

「地獄の沙汰も金次第」と言うが、公害問題ももちろん金次第だ。産官学がグルと疑われるような状況(実際そうとしか考えられないような事柄が多すぎるが)では、「研究の公平性」がどうして保ち得よう。

結局、この問題も風邪の季節が終われば終焉を迎えてしまい、「人の噂も75日」なのだろうか。

 

 

話しは飛んで、ひょんな事から最近大学の教育・社会学(?)の若い先生と知り合いになった。

彼の博士論文のテーマは少年非行などの「特殊な状況を個々に調査分析することにより、そこから一般論ないしは問題の本質を見つけ出そう」とするモノだったようだ。こう言った研究方法は脳科学だけでなくやはり幾つかの分野で導入されているようだ。しかし、いずこも同じようで、彼の当該学会でもまだまだ主流とはなり得ないような方法論なのだそうである。どこにでも守旧勢力は有るモノだ。

 

その具体的な活動として、彼はこのところ多くの人の「話し」を聴き、特に高齢者の話しを聞き、分析研究することにより、その中から「何か」が掴めるのではないかと考えているようだ。その後、心理学の生涯発達を研究している上の娘によれば、この方法は、少し前から学問的にトレンドとなっている「ナラティブ」という方法論の様である。

 

4−2.NBM

 

実はこのナラティブというのは考えてみれば格別目新しいことではなく、ある意味医師の問診みたいなモノなのだが、問診などとの根本的な違いは、“話し”が「聞き手」の質問により進められるのではなく、あくまで全面的に「話し手」の意志によりなされることである。

要は、医師が、「熱は?吐き気は?ここは痛くないの?…?」などと聞かれたのに答えるのではなく、患者自身が、「どこどこが、何時何時から、こういう風にどうこうである。…」などと訴える様なモノである。従って、ある意味、話し手にある程度「話し」ができる能力がなくてはならず、実はこの点がこの方法の最大の難点でもあるようで、仮に一般の診察でこれをやっていたら、患者の待ち時間は待ちがなく今より長くなる。

しかし、こうしないととんでもない間違いが起こる場合がふと浮かんだ。例はどうかとも思うが、犯人の自白である。

 

では、医学ではどのように導入されるのかという具体的説明は以下を参照。

 

斎藤清二 (富山大学保健管理センター教授・所長)

 医療/医学における新しい概念であるナラティブ・ベイスト・メディスン(NBM)は、 新たなパラダイムをもたらす可能性のあるムーブメントです。

 NBMは「物語り」あるいは「語り」という観点から、医療/医学の全ての分野を見直そうというもので、 医学と他の専門分野、特に人間科学(Human Sciences)を構成する諸科学との幅広い学際的な交流を特徴としています。 認識論としてのNBMは「構成主義」を背景とし、実践論としてのNBMは広義の「対話」そのものといえるでしょう。 また、研究論としてのNBMは、広義の「質的研究法」をそのキーワードとするものです。

一般医療の実践という観点から見ると

  1. 患者の語る「病の体験の物語」をまるごと傾聴し尊重する。
  2. 医療におけるあらゆる理論や仮説や病態説明を、「社会的に構築された物語」として相対的に理解する。
  3. 複数の異なる物語の共存や併存を許容する。
  4. 医療従事者と患者との対話の中から新しい物語が創造されることを重視する。

          という点を特徴としています。

 NBMは、医療における生物医学的方法論の過剰な重視への警鐘であるとともに、「医のアート」の再認識と再発掘であると言えるでしょう。
 今回は医学と人間科学のコラボレーションと題し、認識論、実践論、そして研究論を通じて示唆に富んだ興味深い切り口を ご呈示いただけるものと期待しています。学生・院生・教職員をはじめ、学内外からのご来訪をお待ち申し上げます。

http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/hs/kikaku_2003/nbm/nbm.htm

 

私的には、実にこれこそ、脳科学の方法論と共に、「参照値は被害者にあり」という考えに直結するはずの願ったり適ったりの考えである。

「医学と人間科学のコラボレーション」とは何とも響きの言い言葉である。低周波音問題には完全に欠如している視点である。

 

 

4−3.意識のズレ

 

と、まー、こういった問題は超マイナーな低周波音問題だけかなどと思っていたが、あに図らんや、2007/05/19付けの読売新聞の社説によれば、

 

日本人の2人に1人が、がんになる。3人に1人が、がんで死ぬ。もはや国民病だ。

 この病気を減らしたい。不運にも患者になった場合は、不安や痛みの少ない、適切な治療を受けられるようにしたい。

 政府の対応を強化するため、昨年6月に成立した「がん対策基本法」に基づいて、「がん対策推進基本計画」の策定が進んでいる。がん死亡率の低減や治療施設の充実など、10以上の項目について10年後の目標を定めて対策を記す。

 日本のがん対策は、これまで欧米先進国よりも劣ると言われてきた。

 放射線治療や、抗がん剤治療の専門家が少ない。告知の問題、治療を支える体制の不備などが原因で、痛みを軽減する緩和治療も十分ではない。

 政府として患者の実態を把握する仕組みが整っていないため、国際的に標準とされる適切な治療が受けられているかどうかさえ分からない。

 計画案を検討しているのは、がん患者や専門医たちで作る厚生労働省の「がん対策推進協議会」だ。すでに3回の会合を開いたが、懸念されるのは、患者と医師、専門家の意識のズレだ。

 患者たちは、日ごろの病状への不安や治療への不満に即して、極めて具体的かつ詳細に施策と目標を提案している。

 

と言うことである。当に、いずこも同じなのである。

 

 

 5.逆カクテル効果

 

先ほど、下の娘が結婚し、その披露宴のビデオの編集をしていて改めて気付いたのだが、その中で出席者全員に私がインタビューして廻った部分があるのだが、ビデオを見ても、何を話しているのかほとんど聞き取れない。撮影時は全部聞き取れていたのだが、ビデオになった、即ち、録音になった状態では、周りの、より大きな音や声の方が聞こえてしまう。

インタビュー中の私はこれぞ当に「カクテル効果」の真っ直中に居たわけである。それこそ科学的に考えれば、実に当たり前のことなのだが、ここまで効果的な「効果」なのかと驚きを新たにしたわけである。やはり、別マイクを用意すれば良かった等と思うのは後の祭りである。

 

カクテル効果が有効に働くには、聞き手側と話し手側にお互いの意図とそれに基づく注目必須条件なのである。これにより、お互いの「聴感の指向性感度」がググッと高まり、喧噪の中でも会話ができる訳である。聴覚に限ったものではなかろうが、人間の能力は凄いとしか言いようがない。

子どもの頃に「忍者は両耳の聴力を片方の耳に集中させて2倍の距離の音まで聞いた」などと言うことを雑誌で読んで、チョット練習してみたが、「右足が沈む前に、左足を出せば水面を渡れる」などと同じように、そうそう簡単にできる事では無さそうだ。

 

しかし、音源(話し手)に近い場合にはビデオ内蔵のマイクでもそれなりに話しの内容は解るわけで、当たり前のことなのだが、音が聞こえるかどうかの第一条件は、あくまで音源への距離or音の大きさ(音圧)であることを改めて確認したわけである。

 

と言うことで、実に、当たり前の事なのだろうが、「生」の音響状況でなくては、ステレオ録音のビデオの映像を見ながらでも、カクテル効果の効果足るべき「選択的な聴取」はできないと言うことである。実は、何度も見ると口の動きから発している言葉はかなり解るのではあるが。

ということから考えると、「実験室の音」はあくまで擬似的に周波数、音圧を加味して創られた音であり、あるいは録音されたモノであり、なおかつ、幾つあろうとスピーカから出る音であれば、それは決して現実の「騒音」ではないとうことである。ましてや、聴力検査に使われる「ノイズ」は「現実音」としては有り得ない音なのである。

 

参照値作成に際して使われたであろうような実験音は、単に聴覚の閾値を数的に計測するのにはそれなりに意味があるのだろうが、前掲の相対的音感という人間的要素、就中、「一生この中にいなくてはならないかも知れない」騒音の現場に於かれていると言う切羽詰まった心理的要因などは全く欠如していると言うことである。被験者達に、仮に騒音現場と同じ周波数、音圧の音を聞かせ、「あなたが聞いている音はこんな音でしょう?」などと幾ら聞いても、「それは違う」と答えるしかないはずだ。

 

07/05/17の衆院安全保障委員会は、米軍基地を抱える自治体の首長を参考人として招き、国の安全保障に関する意見聴取をしたが、宜野湾市の伊波洋一市長は米軍普天間飛行場の現状を説明し、即時閉鎖を訴え、「宜野湾市民は激しい騒音で日常生活を破壊されているだけでなく、騒音による身体的な苦痛や墜落するのでは、という心理的な不安の中で暮らしている」と強調しているが、この「心理的な不安の中」というのが、実験などでは絶対反映しないはずだ。

 

私には、年間七万回の飛行回数で国内最悪の爆音被害をもたらす米空軍嘉手納基地周辺での100dBを超える轟音は解るが、その現場に住む「心理的な不安」を具体的に知ることはできないが、基地問題が持つ八方ふさがりの状況が持つ「心理的な不安」は想像できるような気がする。

 

 

6.マスゴミ

 

低周波騒音被害者にとってヘリの轟音は最悪音の一つであり、私はこれまでもヘリの音の辛さについては述べてきたが、07/05/18に起きた「愛知県長久手町の発砲立てこもり事件」の際は、事件そのものについては置いて、現場は、直線にして我が家から5kmくらい離れているのだが、取材のヘリが18日は事件発生から、日が落ちるまで、19日は夜明け(午前6時くらい)とともに、元妻が逃げ出すまでの午後3時頃まで9時間の間、5分〜10分間隔で我が家の上空まで飛んできていた。

これは現場上空にホバリングしているわけにはいかないので現場と我が家の近辺までの間を何機かが楕円状にグルグルと旋回していたのである。多分現場での動きを各社が偵察していたのか、或いは、捜査陣が一気に流れ込むシーンでも撮ろうとでも考えていたのかも知れないが、結局TVで流れた上空からの映像で流れたのは、撃たれた警官が延々5時間以上に渡り放置状多胎にされていた映像だけだったのではなかろうか。犯人が近隣住民に与えた迷惑被害は言うまでもないが、こういった事件が起きる度に取材ヘリが周辺住民に撒き散らす騒音被害は無意味なモノであることをマスコミ各社は認識すべきである。上空からの映像がどうしても必要なら合同取材機1機で良いのではないか。

マスコミ・ヘリの横暴は警察でも制止できなかったのだから一般住民の願いなどとても聞いてくれそうもない。2ちゃんネラーではないが、思わず「マスゴミ」と言いたくなる。

 

と、最近の「騒音事件」を述べたが、これはたかだかたった2日間のこと。それでも私は随分苦しかった。沖縄の基地周辺ではこう言ったこと以上のことが毎日起きているはずなのだからその苦痛は想像を絶する。

先日のNHKニュースで基地周辺の家の轟音が余りに酷く「政府の手で」玄関の引き戸が2重にされているのを報道していたが、そんなことで収まるはずはない。止めは、住民の方が、騒音性難聴になっているが、「国は基地の騒音と難聴の因果関係を認めない」と言う事である。おかしな話しかも知れないが、低周波騒音被害者になる前なら、素直に「信じられない!」と思ったであろうが、今なら「さもありなん」と思ってしまう自分が怖い。

日本の騒音による障害は、整備の行き届かない中小零細の工場などの現場でしか発生しないのだ。何故なら、そう言ったところなら行政が取り締まることができるからだ。

 

 

7.脳科学は非科学

 

で、今しばらく脳科学の視点から見てみたいのだが、とっても解りやすい脳の本「進化しすぎた脳」(2007 池谷裕二)によれば、

 

脳科学には限界があります。即ち、「ヒトの脳の研究は、単純にいま表面に現れている相関関係を追うだけではダメで、汎化とか予測とか記憶などの要素を考えなくてはいけない。そして、もちろん考慮しなくてはいけないのが自発活動。脳の活動の大半は自発活動が占めている。自発稼働の大海から埋もれた意味のある情報をちゃんと抽出できるかと言うことである。

…、しかし、自発活動が起こって、脳回路はそれ自身をどんどん書き換えていく。つまり、もう二度と同じ状態をとりえない。二度と同じ状態はとりえない。…。

脳の回路のシナプス状態の組み合わせの数は、2の1000兆倍あり、宇宙全体の星の数を遙かに超えている。それだけ膨大数の要素が、絶えず時間とともに変化していくのだから、脳が再び同じ状態に戻ると言うことは確率的に言ってもありえなさそうだ。

…、(ところが)、科学というのは「再現性」を重視する。しかし、脳には再現性がなく、二度と同じ状態にはならない。…、(従って、)こういうことを学会とかで話すと、いろいろと猛反発をくらうんだ。そんなもんは科学じゃないと。“

(「進化しすぎた脳」講談社ブルーバックス)

 

私自身は“専門家”達の低周波音被害理論における「再現性の無さ」をもってして、低周波音理論の非科学性を非難し、脳科学に辿り着き、これこそ最も科学的であると論を進めて来たのだが、その脳科学には「再現性」がないという、現在の科学の条件からは否定されてしまうと言う、何とも、困惑と言うより、思わず笑ってしまった。どの道もそれなりに厳しいものです。

 

 

 

 

 

人間には聞こえない低周波音(人間の可聴周波数帯域は約20Hz以上なので、それ以下)を使用し会話していると言われ、その鳴き声は最大約112dBもの音圧があり(自動車のクラクション程度)、最長で約10km先まで届いた例もある。加えて、象は足を通して低周波をキャッチすることができることも、最近発見された。ゾウの足の裏は非常に繊細にできていて、そこからの刺激が耳まで伝達される。かれらはこの音を、30Km40Km離れたところでもキャッチすることができる。この領域はまだ研究が始められたばかりだが、雷の音をキャッチしたり、遠く離れた地域で雨が降っていると認知できるのはこのためではないかと考えられている。

高い認知能力も持ち、例えばサファリの車の中に乗っているドライバーを見分けて、以前に象の群れに危害を与えるようなことをした人物には、そのずっと後にも攻撃的になることがある。人々が違う言語を話しているのを聞き分けることができ、象を殺すこともあったマサイ族のことを非常に恐れる。ただし、同じマサイ族でも女性には攻撃をされないことを分かっているので、男性だけを避けようとする。

 

と言うような点から、「音楽素養説」は、それを音に関する「センス」と考えれば可能性はあるでしょうが、今のところ統計的なデータがもちろん有るわけでは有りませんから、むしろそれは結果論であり、必ずしも原因説とは考えられません。

 

もし、これが言えるならば、私が知る限りでは、低周波騒音被害者は、五感(視・聴・触・嗅・味)のうち、触覚を除く、首から上の感覚器が優れている可能性が有り、資質説を採りたいと思います。調査できたら良いなーと思っています。

 

事実、カラオケでもキーを上下させて(回転数を上げ下げする)歌い手の声の音程に合わせることができるのですが、この「相対音感」と言うのが、私的には「音のうなり」とか、被害者の低周波音の表現方法、あるいは個人的低周波音認知の差異などに関連しているのではないかと思っていますが未知です。また、左脳的感覚と繋がってくるのではないかとも思うのですが、これも未知です。

 

 

 

そして、虫の音ですが、私も鈴虫の音(ね)は良いなーとは思っていたのですが、実は引っ越した当時、窓下で鳴く虫の音(おと)が鼓膜や脳を削るような感じがしました。多分これは今思えば例のブランコ氏が言う、繊毛が傷ついていたのか、あるいは脳の折角治り始めて張り始めた「薄皮」が剥がされている感覚がピッタリでした。多分、西欧人はこの時の私の感覚のように虫の音(ね)を聞くのではないでしょうか。

 

心理学が専門

可聴範囲を外れた音は音として聞くことができませんが、日常生活の中で私たちにいろいろな影響を及ぼしています。音の高さが最高可聴値を超えた音を、超音波といいます。・・・超音波は私たちの生活の中でいろいろな形で利用されています。病院では結石や胎児の診断に、超音波を利用しています。また、原子力発電所の炉や配管にひびが入っていないかどうかの点検にも、超音波が利用されています。一方、最低可聴値より低い音は超低周波と呼ばれ、音圧が十分大きければ音の感覚を生じさせます。しかし、ふつうは音としては聞こえないで、振動として伝わります。超低周波音を振動として感じると、耳に圧迫感が生じたり、何となく不安を覚えたりする人もいるようです。(「1 音波と超音波」より)

 

 

 

 

ただし、以前から“専門家”は、「“単なる気のせい” 説」というものを“提唱”しており、最近では特にこの説により低周波騒音被害者を切り捨てようとしているが、そのためには「気にしないでおく」方法をまずは提示すべきである。低周波音の“専門家”は多分自分の都合の悪いことになると聞こえなくなってしまう、あるいは聞かないで済ませられる「勝手×××」体質なのだろう。しかし、それにしては、「気のせい」だけで、苦しんでいる人が多すぎるとは思わないのだろうか。


最後まで読んでくれてありがとう。


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061205