エコキュートによる"死"-2
睡眠を奪い死に至らしめても殺人ではないのか
5. 低周波音被害者の死
5-1 自分だけが最悪ではない
低周波音被害に限ったことではないが、とかく、被害者は自分に降りかかってきた被害だけがこの世の全ての被害であり、自分が最悪だと思いがちである。勿論そうである。だが、決してそんなことはない。同じ様な被害で、もっと悲惨な状態の被害者が居る場合もある。被害の種類が違えばもっと悲惨な被害もある。
と言って被害者の現状を単に口先で慰めよう等と言う訳ではない。あなたに降りかかった被害こそ、あなたにとって、この世の全ての中で最悪であることに間違いない。だが、かのシェークスピアも言っているように「最悪と言っているうちは、まだ最悪ではない」のである。では、本当の最悪とはどんなモノなのであろうか。それは「最高の幸せ」はその際には解らないように、多分解らないのではなかろうか。後から振り返ってみて、「自分にとってはあれがそうだったのか」と言うことを知るためにも、もう少し生きてみてはどうだろうか。
日本語には無い表現だが、あなたはあくまで“One of the Worst(=最悪の一人)”なのだ。中学で初めて英語を習った頃は「ワン・オブ・ザ・ベスト」=最上のモノの一つ、と言う表現が、「1番は一人」と思っている頭にはどうもしっくり来なかったが、歳をとるにつれ、やっと、最善も最悪も幾つも有ると言うことが解るようになった。
5-2 全面救済
これまでの低周波音被害に限れば、“あなたの被害だけ”が解決される可能性が無いわけではなく、“運良く”希に解決できた人は、「こんな問題に二度と関わりたくない」とばかりに、低周波音問題から一切、手を引いてしまう人がほとんどである。
だが、折角、開かれた、一つの事例における解決への道は、それに類似した、そして、またそれに類似した、…、それまで解決に到っていない、第2、第3、…、の事案の解決のために問題点が一つでも明確になれば、必ずや次の事案に何らかに有効なはずだ。ひいては、それが問題の全面解決という形に繋がる可能性もある。
しかし、騒音源となる機器がエコキュートのように民生用として普及してしまうと、それらの「全面撤廃」は費用対効果費の視点からしても、最早、現実的には不可能に近い。一方、風車の様に当初から膨大な費用を投下してしまったモノは余程の事がない限り、撤去されないであろう。即ち、最初から造らせてはならないである。
これらの問題は、運良く、現状の問題が解決されるような場合が来ても、先ず間違いなく個別的な対応となり、必ずどこかに「線引き」がなされる。
そして、この「線引き」こそ、大きな公害で未だに裁判が継続している理由である。原爆認定訴訟では、この線引きで、60年以上たった、2009.5.28 の報道では、「原告側は“18連勝”となっても、まだ全てが救われているわけではなく、今後の原告全面救済に向け、決意を新たにした」と言うことである。水俣病も同じである。
この「全面救済」という考え方は、NWWが紹介している“WHAT TO DO when your community is targeted”の拙訳「風車建設阻止マニュアル」にある、“「近所での建設反対」と言う「敵の巧妙な罠」”に陥らないための考えに通じる。即ち、例えば、風車騒音問題で、“自分の近くの風車だけ”の夜間稼働停止とか、完全停止とか、撤廃と言う反対運動の進め方は、NWW的には、当に、「敵の巧妙な罠」に陥ってしまった事になるのだ。
この術中に陥らせるべく行政・事業者はあくまで、個別対応に名を借りた線引きを狙ってくる。もちろん個々の被害者が、永久に続くかもしないと思わざるを得ない苦しみの日々の中では、その「美味しい餌」に食い付き、「敵の巧妙な罠」に陥っていくのを咎めることは出来ない。
5-3 都市伝説としての死
これまでも低周波音被害者が自殺したと言う話しは、時々、「だそうだ」と言うレベル、即ち、被害者の状況、名前すらはっきり判らないような状態で聞くことが少なからずあった。その直前まで行った自分としては全然不思議ではない。
何故そうした状況でしか聞くことがないかというと、その一番の理由は、低周波音被害者の常として、被害者の被害状況そのものがそもそも孤立しており、尚かつ、一番身近である家族にも理解が無い様な場合が少なくなく、増して第三者の理解はなく、被害者同士の横の繋がりは少ない場合が多く、仮に組織的に有ったとしても、その組織に存在することのメリットに依る良好な結果が容易に出るような場合は希であり、結局は組織を去ってしまう場合が少なくなく、組織的には消息不明となってしまう場合も少なくないからである。
そして、もう一つ、日本では、どんな状態であろうと、とにかく「生きていることこそ一番」とする死生的倫理観が強い。しかし、100年単位で、少し考えてみれば、この死生観は極々最近成立したと言える。詳しくは考えていないが、少なくとも、それはホンの戦後のような気がする。それ以前に於いては、自死はそれなりに意義有る死に方の一つであったのではなかろうか。
と、まー、そうした問題はひとまず置いて、現在でも、自死は、理由の如何を問わず、近親者はその事実を秘密、隠密にし、そっとしておいて欲しいと思うのは無理からぬ事である。よって、当然ながら、第三者的に経緯を知りうる場合は極めて希であるし、仮に有ったとしても、あまりに近く関わりが有ったとすれば、やはり、そう言った人たちも、口を噤(つぐ)むのが最良であろう。
しかし、それでも、尚かつ、どこからとも口伝えで聞こえて来るのが、こういった話しである。だが、こういった口伝のような話しは、一時的には仲間内的には話題になりはするが、何れ、誰の記憶からも失せていく。その理由の第一は詳細な具体的な事実が解らないからである。実に、私も低周波音で亡くなったという方の具体的な話しを今もって知らない。
詰まるところ、「低周波音による死」は何ら記録に残ることもなく、人々の記憶から失せていき、個人の事件としては消滅し、この世には、法人格的な国や学会の「低周波音による健康被害はない」と言う話しだけが残る。
そして、時々盛り上がりを見せる、例えば、昨今の盛り上がりを見せている風車騒音問題のような場合にも、「因果関係不明・科学的知見調査中」と言うご託を、国は相も変わらず繰り返すのみである。
5-4 被害者の無念
死、就中、自死という問題は非常にデリケートであり、やはり、第三者が、軽々に論ずることは控えるべきかも知れない。更には、直接ではないにしろ低周波音によってもたらされた苦しみ(何度も繰り返すが、殺人兵器のように低周波音により人が死ぬことはない。その影響により非常に苦しみ、自らを追い込み死ぬのである)により自死したとしても、実のところ、低周波音被害者の苦しみの実際を知らず、“低周波音による健康被害はない”として、黙殺し続ける低周波音“専門家”や役人(市町村の自治体職員も「低周波音マニュアル」によれば「専門家」と言うことになっている)はもちろん、当然ながら低周波音による苦しみがどんなモノであるかを全く関知しないほとんどの一般の人々にとっては、「自殺まで公表するなんて、低周波音被害の恐ろしさを宣伝するためにする風評なんじゃないの」などと受け取られる可能性が有ったので、これまで「低周波音による死」は噂話的にもサイトに載せることはなかった。
しかし、こういった話しは何時かは何らかの形で残されるべきだと思っていたが、この度、それが雑誌に載った。しかも配偶者の方によると手記として。もちろんこういった顛末を公表される当事者の気持ちが奈辺にあるかは想像するしかないが、くどいが、少なくとも低周波音の苦しみにより死の直前まで行った経験がある私は死に行く者の気持ちが、“ほぼ”解るとは思う。
私は低周波音の苦しみと言うより影響から、とうとうベッドから起きあがることもできなくなり、這って行って家人を呼び、抱えられて入院した事がある。その時の検査結果はもちろん「異常なし」であった。結局、翌日専門の医師に診てもらうために一晩入院した。
病室の電気時計がコチコチ時を刻む音と冷蔵庫の音が耳について眠れないのでどちらも電源を抜いた。
翌朝、病院の4階のベランダから、地面を眺めていたら、ここの手すりを越えさえすれば、とにかく現在の苦しみから解放されて楽になれる、と思い、それまでもどうしたら楽になれるのだろうかあれこれ考えていたが、結局何も思いつかずにいたのだが、その時初めて、じーっと地面を見つめ、距離はどのくらい有るのだろうか、落ちたら本当に死ぬのだろうか等と具体的に考えた記憶は今もって結構鮮明である。そう言ったとき不思議とあまり恐怖は感じないモノだ。それよりも楽になれる、と言う気持ちの方が勝つのであろう。
で、具体的な手順として、まずは手摺りを乗り越えようと考えたのだが、しかし、それにしても、この手摺りは意外と低いではないか、その気になれば乗り越えられるじゃないか、などと思った瞬間、待てよ、このままこの苦しみを誰にも告げずに死んでしまうのは、あまりに悔しいではないか。とにかく、誰かに、何かに、せめて一矢報いなくては、とフト思った。その瞬間、タバコが吸いたくなった。
5-5 タバコの功罪
急いで、病院の道路向かいのコンビニにタバコを買いに行き、深く、深く立て続けに3本吸った。映画だったらかなり昂揚した明るい音楽でも鳴り響くところなのであろう。今時百害あって一利なしと、世間から親の敵が如き言われようをしているタバコであるが、少なくともこの時、タバコは私の命を救った。
酒やタバコでのせいで健康を害した場合、それを止めれば、少しは良好になるはずだが、酒もタバコもやらない人は、悪くなったとき止めるモノがない。正真正銘、良くないのである。それでは救いがないのではないか、と言うのがタバコ吸いの言い訳の一つだが、私は非常に気に入っている。確かに体調が悪くなると言われるまでもなく煙草は吸いたくなくなる。逆にタバコが吸いたくなれば、快方に向かっているサインなのだ。
そう言いながらタバコを手元に置くのを止めて1ヶ月になる。折角始めたのだからどこまで保つかがんばってみたい。が、今度はアルコールが増える。食欲も増す。これはこれで、危険である。運動をしなくてはいけない。余計に腹が減る。
歯医者へ行ってタバコを止めた話をしたら、「それはよくやった。後はコーラとチョコレートを止めろ」と言う。私にとって、コーラとチョコレートは”栄養素”なのだ。体に良いことばかりして、延々と生き続けること自体に如何なる意味があるのか。
最近、葬式などで、80代の男性等と話すと、「長生きしてはいかん」と言う話しが圧倒的に多い。一方、つい先日など、同年代がコロリと死んだと聞いて、思わず「それは良かった」と思わず言ってしまう。「何てことを言うんだ此奴は」と言うのが相手の顔に明らかに見える。
と、まー、うだうだと述べてしまったが、詰まるところは、未来に希望が無くなると人は死にたくなるが、それで皆が死ぬわけではないが、死ぬ人の殆どは希望が無いのだけは確かだ。で、私の勝手に、当事者には間違いなく何らかの「無念」の思いがあるはずではなかろうかと考える。
5-6 事の経緯
この事件を私が知ったのは、今年(2009)の5月になって、騒音SOSの一理事が理事達を除く多くの会員に送付されたとされる一通の手紙が巡り巡って私に巡ってきたことに始まる。
その内容主旨は「会の運営の不手際により、隣家のエコキュート騒音に苦しむ方が、自殺をした。私も改善に関わってきたが力不足で責任を感じている。しかし、こうした事態に至らしめた会の体質、方向性、運営方針に対し疑問を持つ。よって私は退会する」という退会の挨拶状の形を借りた会の運営に対する糾弾状のようなモノである。
しかし、何よりも問題なのは、もちろん「エコキュート騒音に苦しむ方が、自殺をした」と言うことである。結局、その後6月になって、5月に出た建築ジャーナル5月号“「エコ」と低周波音被害”の亡くなった方の奥さんによる手記で詳細を知った。概要は、
夫妻の隣に引っ越してきたA家からの夜間の「ズーン、ズーン、…」と言う音により、不眠、イライラ、頭痛、食欲不振、下痢となった事に始まる。当初は何が原因か解らなかった。隣家、業者の打った手も効果無く、症状は悪化した。行政にも訴えたが相手にしてもらえない。
そして、この問題はエコキュートが原因ではないかと思い至る。そこから低周波音被害者が辿る典型的な“巡礼”が始まる。@行政A医者B被害者団体組織への参加C行政の測定D結果に納得できないE騒音源側との交渉、不調、関係の一段の悪化F度重なる心労G自殺。
と言うことである。ここまでの内、Fまではしばしばあることである、と言うより、低周波音問題は解決が難しいので、基本的には、ほとんどここまでは行く。Jさん達が辿った交渉の経緯は低周波音被害者が辿る道としては“王道”だったと言えるのだが、結果は最悪となってしまった。
と言うことであり、Gに到ったのは、昨年(2008)の秋過ぎらしい。恐らく、関係者(それまで一時的にしろJさん達が、低周波音被害の訴えをして、参加していたと思われる複数の被害者団体の管理者達は、この事実を昨年中、遅くとも今年の春までには知っていたと思われる。しかしながら、関係団体のHPにはこれに関して何らのコメントも出されていない。
5-7 専門家などいない
@については今更望むべくもない。が、彼らは一応、と言うより紛う事なき、環境省が言うところの低周波音問題の専門家なのである。従って、彼らに己の無知、無能さを認識させ、ひいてはこの問題の処理を末端行政にさせる事自体が根本的に間違いであることを、末端行政自体が環境省に「上申」させるべく、徹底的に認識させるためには、自治体の窓口と徹底的に交渉していくことは如何に徒労に帰す無駄であろうとも必要不可欠である。
Aについては低周波音による影響による体の不調などと言うことは殆どの医師には診断できないので期待してはいけない。しかし、不調の内容ととそれが始まった時期を明確に特定するための公的記録として体がどのように不調であるかくらいのの診断書は書いてもらっておいても良いかもしれない。
Bについては、会そのものが「問題解決処理の窓口」として存在しているのではないと言うことを肝に銘じておくべきだ。あくまで解決への現実的対応の方法と方向性を手引きしてくれる「問題解決への手ほどきをしてくれる窓口」なのである。根本的に、行政との交渉などそれを実行に移す主体は、あくまで被害者本人であることを忘れてはいけない。もちろん弁護士などを介在させることは可能であるが、余程こういった問題に詳しい者でない限り使い物にならない。今のところは使える弁護士は居ないそうであるし、普通に良心的な弁護士ならこの問題の解決は難しい事を知っているので断るはずだ。
C〜Eについてはどこが測定しようとも「参照値」がある限り、「その騒音源は問題である!」等と言うことにはならないと思って間違いない。
6.被害現場のデータ
6-1 データの有用性
最近もエコキュート騒音による被害者は尽きることは無い様だが、困った問題が生じている。環境省によれば「低周波音問題の最前線の専門家」であるはずの「自治体の環境関係の部署」の多くの無能さと遅々とした動きに絶えられず、あるいは、行政を促すべく、時として被害者が現場での測定を第三者に依頼することがある。
その結果が、被害者の被害感と一致したり、上回るような場合、即ち、行政が「明らかにこの騒音は非道いです。問題です。早速処理しましょう」等と言う測定結果が出るようなことは、先ず無い。しかし、だからといってその測定結果は無意味かというとそんなことは決してない。専門家が何と言おうが、少なくとも、「その数値の騒音であなたが苦しんでいる」という重要な証拠になるからである。
ところが、昨今“第四者”である様な私の様な立場の者はその数値を知ることができなくなってきた。その原因の一つは、どうも測定者が、被害現場の測定データは個人情報であるから第三者に見せない様に、知らせない様にと“助言”をしていると聞く。
そもそもが、予備的措置として測定された被害現場での測定データは、当然ながら次には、然るべき支援者なり、行政なりに見せて、現況に於ける可能な限りの適切な助言をゲットするためにあるはずである。然るに、「他人に見せるな」では”被害初心者”は一人で握り込んでいてどうしろというのだ。
もちろんデータの本来の有効活用の道は、データが集積されることにより、仮にその測定データが「参照値」に全く届いていなくとも(もちろん現実的にそうであるはずだが)、それが集まれば集まるほど、如何に参照値と言うモノが、現場に於ける被害感覚を無視した、被害者の役立たないどころか、被害者切り捨てのツールであるかの紛うことのない証明になるのである。
言うまでもないが、情報の隠蔽と独占は、そう言った道を一切閉ざし、結果として「参照値」を多いに助けてしまうことになるのである。全く残念と言うより、敵に利する許し難き仕儀としか言いようがない。
6-2 産総研
産総研(産業技術総合研究所)という組織をご存じだろうか。丁度去年の今頃テレビ朝日報道ステーション放送で放送された「風力発電のもたらす深刻な被害」に登場していましたね。早モノでもうあの放送から1年経ってしまったのですね。この1年で風車騒音問題に大きな変化は有ったのでしょうか。
産総研のHPに依れば、「我が国の経済的発展に貢献し、国民の生活向上に寄与」とあるが、低周波音などの研究もここがしている訳なのだが、「我が国の経済的発展」である様な、例えば、エコキュートとか、風力発電とかに伴うような低周波音とかにおける苦情等も研究するならここで研究されているはずであろうし、また、研究するならここしかないのであるがどうも…。
と言うわけでも無かろうが、産総研は、時々、低周波音被害現場での測定に赴いているらしい。で、聞くところに依れば、その測定機器、技術、測定法、分析は日本で最高級、最新の方法であるらしい。私は低周波音の研究は多分日本が世界一だと思っているから、日本一と言うことは世界一と言うことになるのだろうが、それは、一般で行われている測定とは随分違うらしく、そこの先生は一般の測定を「それではダメだよ」等と仰っているらしい。
何がダメなのかは解らないが、少なくとも「低周波音測定マニュアル」に従った一般的な測定方法そのものが「ダメ」とすれば一体何が良いのか解らない。が、とにもかくにも、測定法がどうであろうと、その結果は、「あまりに例外が多い参照値」の例に漏れず、測定数を増やせば増やすほど「参照値」以下のデータが出現するはずであることは明白で、「参照値」は一体何のための存在なのかを被害者でなくても、考えざるを得なくなるはずだ。
とすれば、測定データの被害当事者による公開はもちろん、口外は当然、当事者にさえ解りにくいようなデータを渡したとしても何ら不思議ではない。マサカとは思うが、ゲスの勘ぐりをすれば、産総研こそ、参照値の作成に多いに寄与したと言うより「創った」とも言える、“完全御用機関”なのであるから何をしても不思議ではない。
言うまでもないが、産総研は、一般人が「低周波音の騒音測定をお願いします」などお願いしたところで、「おいそれ」と測定に赴いてくれる様なところではない。では、なぜ、産総研の測定データ云々という話しが出てくるかというと、騒音SOSには、産総研の関係者であり、当に「参照値」を作った人その人が存在しており、必要に応じてなのか、運良くなのか判らないが、その会に居ることで、最高級の測定が可能となる場合が有るのである。もちろんそこは、低周波音被害者と言う“マウス”が一番多く集まっている組織なのではあるが。
6-3 NPO騒音SOS
低周波音被害者の問題を解決に近づけるには、言うまでもなく、被害者組織にとっては、こういった組織との繋がりは、虎穴に入らずんば虎児を得ず、毒を喰らわば皿までもの言葉通り、極めて有効なのである。けんか腰だけでは事は進まない。何もそう言った経緯からだけではないようだが、結果的に参照値の作成者等が会に招き入れられたのである。もちろん、“このルート”が極めて有効に機能したことも少なくない。
しかし、その会で被害者の測定希望や疑問点に応対していれば、自ずと「参照値」に合致しない例証が頻出することは明白である。畢竟、会の運営方向は「参照値」擁護という、被害者の思いとは全く逆の方向を向かざるを得なくなると言う、根本的なジレンマを抱えることになる。
当初、会がこういった体制を整えた時に「軒を貸して母屋を取られる」のではと運営を危ぶんだが、結局は母屋の崩壊をもたらすような事態に陥ろうとしていたのが、今回の件が発覚してきたそもそもの起こりである。
産総研のような御用機関が最早、客観的に見て、既に科学の良心から大きく逸脱してしまった低周波音問題において、その法規とも言うべき「参照値」の信憑性を揺さぶるような、例外的数値であるとしかしようがない現場に於ける低周波音被害の測定値を少しでも少なくしたいのはもっともである。
6-4 提供すべきデータとは
ところが、本来なら“参照値撲滅”を叫ぶべきはずの被害者団体までが、その測定において結果として「参照値」の補強に手を貸すような事をし始めたと聞く。即ち、@個人情報を楯に第三者にデータを公表しない、A被害者がデータの提示を求めた場合、これまで一般的に用いられているのとは異なる表示形式で示す、と聞いている。
@はもちろん守秘義務的には当然のことであろう。しかし、一つ一つの現場のデータの集積は低周波音被害そのものモノを根本的に解明して行くには必要不可欠のモノであり、是非とも何らかの形で公表していただきたい。実際はされているのかも知れないが不覚にも私は知らない。
少なくとも被害者サイドに立つなら、むしろ、個人がデータの公表を拒むなら、被害者を説得してでもデータを公表してくれるように依頼すべきであろう。発表に際しては、もちろん個人が特定できるような形ではなく匿名の集計データで十分である。場としては集計をHPに載せるだけで良いのだ。
もちろん、当該組織が組織として完全に完結していて、それらのデータは会員間で共有され、お互いの解決への方策として利用され、行政との交渉までセットで導くというならそれはそれでよい。しかし、少しでも低周波音問題を知るものなら、基本的に低周波音問題は民民の個人レベルで容易に解決できる様なモノではなく、必然的に行政の行動・介入が必要不可欠であることは解っているはずである。
隠密裏な行動が必要な場合は別にして、低周波音問題に限って言えば、基本的に被害者側の情報の隠匿は百害あって一利無しと私は考える。
Aについては、被害者にとっては、多くの測定は、(1)測定にさえ動かない行政に対し、明らかに騒音が出ていると言う証明の為の前段階の測定であり、(2)運良く行政が動いた場合の測定では、騒音源側に告知するので、騒音源側は意図的に可能な限り騒音の発生を抑えるのが“人の常”であり、単純にその裏をかくために被害者側は自らの手で“本来の測定”をするわけである。
その測定のデータを騒音被害初心者はどうするかと言えば、支援組織の助言者や、”専門家”とされている行政に持参することになる。
では、被害者から渡された「最上・最新の方式のデータの表示方法」のデータを末端行政や支援者が十分理解できるかというと現実的には「ノウ」である。殆どの、行政の窓口は、正直に言って低周波音問題の専門家などでは全然なく、彼らもそう見なされること自体恐らく非常に迷惑であるはずだ。挙げ句に、これまでの数値方式による表示形式ならまだしも、「最上・最新」のデータは読み取ることができず、当然対応できず、これをもっけの幸いと、「そんな立派なデータが出せる所があるなら、そこに全てお願いしなさい」と言うことになり、対応を拒まれることになると言った事態が生じていると聞く。
こういった事態はあまりに本末転倒である。この、現状に於ける単なる自己満足的な測定結果の表示は、結果として、被害者と行政を断ち切ることになり、更には支援者も手の打ちようもなく、そのささやかな手をも引かせてしまうことになる。詰まるところは低周波騒音被害者が縋ろうとする藁さえも奪うことになるのである。
こうした事態は、ひいては「低周波音による被害はない」と言う事態を招く可能性が大きい。即ち、結果として、参照値の擁護に手を貸す事になってしまうのである。
何故にこうまでに私も強論するかと言えば、こういった事態は、延々と被害を黙殺し続け、現在も被害者現場での測定などはほとんど行っていないはずである行政の態度を支援することになってしまうのである。
「参照値」理論を打破するには、「参照値」に如何に例外が多いかを、こうした貴重なデータに語らせるしかないのである。それこそが、学会や自治体やもちろん国や上下関係入り乱れる業界関係に気を使いまくらなくてはならず、正義は勝つなどとは決して思っていないし、そんなこと有り得ない事を重々承知しているであろう単なる民間の事業的測定会社等とは、根本的に異なるところではなかったのではないか。
少なくとも、当初がそうした意図の元に測定は始められたと私は認識している。測定のデータは、あくまで個人情報を楯に死蔵されるべきではなく、可能な限り公明正大な形で、可能な限り更新されて行かれるべきある。
そして、それこそが「参照値」の正当性を完膚無きまでに叩きのめす唯一の方法のはずである。
ヒョッとして、最近のエコキュートは実は、機器の改良により、既に、低周波音被害を出さないような構造になっているかも知れない。仮に、もし、そうであれば、多くの被害現場に於いても、「単純に最新の機器に交換」すれば多くのエコキュート問題は解決する話しなのかも知れない。正直エコキュート騒音が現実にはどういった状況に有るのかさえ最早支援者はもちろん、私も一切解らないのが実は現状なのである。
しかし、少なくともメーカーがそう言った対応をしているとは聞いていないし、苦情者は絶えないと聞くから、そう言ったことにはなっていないのであろう。
エコキュート騒音にしろ、風車騒音にしろ、もちろん低周波音問題そのものについても、最も詳しく良く把握しているはずなのはこうしたことの担当官庁である環境省であり、現場的状況について最も詳しく良く把握しているのはメーカーさんである。
7.「疑似科学入門」
ダラダラと長文を続けてしまったが、終わりに、2008/4に出た池内了氏の「疑似科学入門」の紹介でビシッと絞めたい。事ある毎に疑似科学、似非科学と騒いでいる私的には非常にスリリングな本で、岩波新書なのだから200ページそこそこでペラペラと読めそうなモノだが、ところが、中々に気になって何度も読み返してしまい一向に終わらない。
新書編集部の能書きは、
著者の問題意識にあるのは、地球環境問題など科学が不得手とする問題が社会に顕在化している状況です。被害があっても原因がなかなか実証できない!―これは複雑系が関係した問題の特徴なのです。このような状況で「正しく考える」には?
著者の対抗策の手始めは、疑似科学を広く3つに分類することでした。第1種は占いなどの「まやかし」、第2種は宣伝などに用いられる科学の誤用・悪用・乱用、そして第3種が複雑系が絡んだ問題、というわけです。
著者からのメッセージは
(なぜ疑似科学について書くのかという問いに対しては)不十分ではあれ問題を提起しておく必要を感じたためと答えたい。複雑系に絡む問題がさまざまに起こっており、それをどう扱うべきかについて社会的合意が得られていないことが背景にある。……複雑系の問題は、特に未来に対する影響が大きいのだから、このまま手を拱いていると次世代に大きな禍根を残すことになりかねない。
(「あとがき」より)
複雑系との付き合い方 「科学的根拠なし」の言説(P.141)
…。結果に対して明白に原因を指し示す要素還元主義の科学に固執して、「複雑系」に関わって少しでも曖昧な部分が有れば「科学的根拠なし」として切り捨ててきたのである。原因と結果が一対一対応をしない限り科学的とは認めない態度、これは科学の範囲を閉じこめた疑似科学的発想と言えるだろう。
また、水俣病訴訟では最高裁判決で、原爆訴訟ではいくつもの一審判決で、これまでの患者認定基準を改訂すべき事が勧告されたにもかかわらず、環境省や厚生労働省は頑なに従来の基準を改めようとしない。…。
まだ全容が知られていない病気だから、わかっていないことが多くある。集団でこれほどの被害を受けたことがないからだ。その点を認識し、病体変化や新たな病状の発現を常に監視し、新しく得られた知見を付け加えて基準を改訂しなければならない。人間の肉体は「複雑系」だから、病気によってどのような推移を辿るかが単純に決めつけられないからである。個人差も大きい。しかし、役人は古い基準を確固としたものとして遵守し、新しい基準の要請には「「科学的に証明されていない」として改めようとしないのだ。…。
政府や役人が使っている手口の例を挙げた。いずれも現代科学が不得手な複雑系に絡む問題であり、それを曲解・誤用・悪用して、「科学的根拠なし」という結論を導き出す点が共通している。第三種疑似科学の典型であろう。
私はこの本の本当の宣伝文句は、著者が最後の最後に述べている“本当は「疑似科学の社会学」としたかった”と言う点に尽きると思う。確かにこの題名では非常に売れにくいであろう。理系の人が語る社会学は文系のぐねぐね、ねちねさがなく、その形式に慣れれば、非常に解りやすい論理展開で、ズバリと手際よく述べられており、私なんぞではどうしてもこうもネチネチ、グダグダと延々と垂れ流し的に述べてしまうのであろうかと反省しきりである。まー、低周波音と言うモノに「怨念」を保っているからであろうと思うが。
内容を引用しようとするとマルマル一冊引用したいくらいなのだが、それはおいて、低周波音問題と言うのは当に、筆者言うところの「第3種の複雑系が絡んだ問題」であると言うことだ。私はこれまで低周波音問題は国や日本騒音制御工学会が述べることは疑似科学であると私なりの論法で述べてきた。それが正しいかどうかは別として、私の依って来たるところの全ての基盤は私の被害体験である。これに合致しない理論は例え、それが如何に客観的科学的であろうと、正しくはないのである。
もちろん「例外のない規則はない」のだが「例外の多い規則はそれは規則ではない」はずである。即ち、帰納的に例外が多ければ、それは演繹の元となった論が間違いなのだが低周波音の"専門家"は訂正をしない。
筆者は“科学として否定できないが、まだ理論や手法が確立せずデータの集積も不十分であるような科学を「未成熟科学」と呼ぶ。複雑系に関わってはこれがしばしば登場する”、と言う。これに当たるのが、地震予知、ガンの特効薬、地球環境問題、遺伝子組み換え作物、電磁波問題、…、とあるので、低周波音問題もこれに属するのであろうが…。
ともあれ、複雑系がからんだ問題でお悩みの皆さんには是非一読をお勧めしたい。この本を読んで何が具体的にどうこうできるわけではないが、少なくとも、自分が置かれている状況が、それなりに整理できることは確かである。
最後まで読んでくれて有難う
090709