低周波騒音問題 基礎の基礎 2/9

あるいは(超)低周波空気振動被害

3)騒音被害者の立場

 ここでは個人の被害者が騒音被害を訴えていく場合を中心に考えてみます。その場合、やはり@両者での話し合いで解決できればベストなのですが、A問題となるのは大抵問題解決にはそれには経済的負担と騒音源側の面子が絡み上手く行かない場合で、その場合には、ひとまず一般的には行政等(市町村の環境(担当)課など)に問題解決への仲介を依頼するのが無難です。Bしかし、それは現実的には行政の立場から、はかばかしく進展しない場合が少なくありません。C特にその騒音問題の原因が低周波騒音である場合には相当の困難を強いられます。


 低周波騒音に問題を限定する前にまずは、騒音問題についての一般的な見方を考えてみます。

@騒音発生源「管理者」の資質

  @)犬の吠え声

 一般に騒音問題に関して、日本では日常の些細(ささい)な問題”であるとして扱われるということです。特に最近増えている日常の近隣騒音は社会全体が”お互い様”の精神で、なぜか非常に大様で寛容です。本来ならば、お互いに相手に迷惑を掛けないように、騒音の発生を抑えると言うのが「近隣良識」なのですが、むしろ現実はその逆で、現実的に問題になる場合は、騒音を出しまくり、受音側の被害者が一方的に我慢を強いられる状況となっています。

 近隣騒音と言ってもその種類は様々で、その典型的な一例として、私が悩ませられ、と言うよりむしろ苦しまさせ続けられている犬の吠え声を考えてみましょう。犬を飼っている”同志”はかなりのレベルと言うより、ほぼ全面的に"お互い様"で吠え声に非常に寛容です。これを”理解”と言うのかも知れません。しかし、犬を飼っていない人間にとっては、犬の吠え声は迷惑この上ない騒音以外のなにものでもありません。

 犬の吠え声は、犬の種類や大きさにより異なりますが、時として
100dBと言う物理的数値としては一般工場の最大騒音レベルに等しいモノとなっています。特に昨今のペット・ブームでどこもかしこも犬を飼い始め、”犬口”は増えて来たのに、吠え声については全くの野放し状態で、その鳴き声が騒音規制の対象にならないのは全く不思議です。”専門家”言うところの等価騒音レベルで測定すると飛行場の騒音のように、間無し出ている騒音では無いので、日本では法的に多分問題ないのでしょう。

 一方、犬と言うよりそれを所有する「騒音発生源者」は、吠え声に苦情を言う人を、「家の××チャンの可愛いor元気な吠え声をうるさいとは、アンタこそ何を”吠えるの”。犬は吠えるモンなのよ。それをグダグダ言うアンタこそおかしいんじゃないの」と、言うような場合にみられます。
 
 犬の吠え声に問題があるのは、その音の大きさそのものに一番問題があるのは間違いないのですが、それなりに躾をされた犬は、まずむやみに吠えません。ところが昨今のペット・ブームとやらで己の住宅事情を考えずに猫も杓子も安易に犬を飼い始めます。例え戸建てでも狭い庭の中で吠えれば、その吠え声は敷地を越えて近隣に響きまくります。アパート・マンションなどの集合住宅等での吠え声は非常識としか言いようがありません。

 ところが、最近はペット可のマンションの方が増えてきているそうで、それはそれで共通理解が有るのですから結構でしょう。しかし、ペット(主に犬ですが)混在地域では、やはり、無神経、吠えさせ放題の我が侭者の方が有利のようです。
 しかし、言うまでもなく、例え犬(騒音源)は敷地内にいても、吠え声(騒音)は敷地内や部屋内に留まることは決して無く、他人の敷地内に入り込み環境を蹂躙します。しかし、人間が他人の敷地に立ち入れば問題でしょうが、「音」は幾ら他人の敷地、住居に侵入しても余程のことが無い限り、法的には問題になりません。

 犬の吠え声は、同じ場所にどちらかが死ぬまで存在します。と思って居たところ、昨年(1913)の暮れ頃から今年の春にかけて、何となく静かになったなー、ふと気付いたのですが、近くの犬二匹が死んでいたのです。そうか、それでずいぶん静かなんだと思うまもなく、その2軒はまた同じような犬を飼い始め、これが実に前の犬と同じような鳴き声をまき散らすのです。さらに、何軒かの隣家まで犬を飼い始め、とうとう、並びで20軒で12匹も犬飼いとなり、キャンキャン銀座となりました。

 犬の多くは子供が欲しがって飼ったのを子どもが飽いた後も、大人が面倒を見ていて、死んだら終わりかと思って居たのですが、その後も同じような犬を飼い、死んだ犬は延々と補充され、結局犬飼は大人なのです。

 外国では犬の吠え声に対し飼い主に様々に厳しい規制を設けているところが少なく無いと聞きます。それは「これらの法規制の根拠は、犬はもともとムダ吠えする動物ではなく、これを起こさせるのは飼い主の怠慢、管理放棄だという認識なのです。」全くにその通りで、日本国においても”犬の治外法権”を撤廃すべきです。少なくとも人頭税(住民税)ならぬ”犬頭税”を取るべきです。

 子どものわめき声もうるさいモノですが、これこそお互い様で、それに子どもは何時までも喚き続けません。犬よりはましです。爆音マフラーは子どもではないのがやっているのですから始末に負えません。


  A)爆音マフラー

 犬の吠え声に良く似ている存在は、道路を我が物顔に”爆走”する”合法”爆音マフラー装着車です。これを付けている人間は××××としか言いようがありません。そもそも「マフラー」は「消音器」なのです。それをわざわざ大きな音にして、騒音をの響きを楽しむというのですから、他の人にとっては迷惑以外の何者でもありません。その存在自体が騒音的には無意味なのです。しかし、まー車は通りすぎれば騒音もひとまず去りますが、アイドリングされてはかないません。しつこく110番しかないでしょう。

 騒音源が長期にわたり無くならないと言う点は、飛行場に始まり鉄道、道路、工場、…、身近では駐車場のしつこいアイドリング、室外機、…と同じです。これらは要は「発生源」を「所有」する「騒音発生源管理者」が
他人に迷惑が掛からないかどうか等と言うレベル以前の人間良識としての「他者の存在」を考えることができる資質があるかどうかという極めて根本的な問題です。

 このような騒音問題の本質を考えてみると、今後も騒音が増えることはあっても、軽減されることは今後しばらくは望めないでしょう。しかし、駐車場のアイドリングについては、これは最近、騒音という視点からではなく、地球温暖化軽減という全然別の観点から条例等で禁止されるようになり、法的根拠が出来、非常に有り難いことです。

 昨今の沖縄の米軍飛行場問題で、政府はしきりに「地元の”理解”を求める」と言っていますが、これはどういった意味の”理解”でしょうか。私にはこの理解の意味が日本語として理解できません。
私の家の犬は米軍並に必要だからみんな犬の吠え声を好きになれと言う様なモノでしょう。


Aマスコミの報道姿勢

 そして、このような問題の解決への進展を難しくしている大きな原因の一つに、騒音関係"事件"が起こった際のマスコミの報道姿勢です。それは、たかが”騒音ごとき”を大仰に騒ぎ立てる人間を異常者かのごとく、興味本位に取り扱うことです。これは当にマスコミは未だに「犬が人に噛みついても話題にならないが,人が犬に噛みつけば話題になる」と考えているからでしょう。私の様な騒音被害経験者からすれば犬が吠える度に「犬に噛みつき」たくなります。犬と飛行場では問題のレベルが違うと思うかも知れませんがどちらも当事者としては「騒音」と言う視点では問題の本質は同じです。

 私が一見して、騒音問題に端を発しているのではないかと思われる様な昨今の"事件"の報道をみていると、取材者の騒音被害に対する無認識は元より、無知識が故にと思わざるを得ないような不十分な取材のママが報道されているように思います。
 それが一番客観的に解るのが音の大きさの単位であるデシベル(dB)の意味もよく解らず「(ラジカセで)何々デシベルの音を出していた」と報道していることです。これは何"デシベル"と言う言葉がいかにも"科学的証拠"と誤解して居るからです。"人間加害者"の騒音値をデシベルで言うなら、バカ犬どもの無駄吠えも100dBを越えることが有ることをご存じでしょうか。

 そして、論調のほとんどは”たかが”「犬の鳴き声で…」「ステレオで…」「布団を叩く音で…」「ピアノの音で…」「バイクの音で…」「車のアイドリングで」「エアコンの室外機で」、…で「そこ(殺人)までするのか」と言う語調です。あたかも”人が犬をかみ殺した”かのように”最終の形(=殺人、刃傷沙汰、…)”だけが大仰に興味本位に報道されることです。

 もちろん
紙面、時間の都合もあるでしょうが、一番肝心であるところの「そこに至るまでの経緯」が詳細に報道される事は非常に希です。現実として、これらの加害者の”最終の形”はある日突然発作的に生じる訳では決してなく、それまでに相当長期にわたる"被害者"との「経緯」が必ずあるはずです。犬は発作的に人に噛みつくことはありますが、もちろん犬には犬の噛みつく必然性が有るのでしょうが、私は人間ですから犬の気持ちは解りませんし、「飼い犬に噛まれる」と言う言葉が有るくらいですから、飼い主でも犬の気持ちが十全に解るわけではないのでしょう。
 しかし、”人が突然発作的に犬に噛みつく”ような事が無いように、人が隣家の人間を突然の騒音が原因で突然殺すような事はないでしょう。もしそうであればそれは病気であり、罰することはできないでしょう。


 騒音が問題となるのは、その騒音が一時的なモノでなく、多くは、騒音が長期にわたり継続的or断続的に続く場合にあります。尚かつ、「発生源」を被害者が自らの力で断つことができないという精神的な苛立ちが被害者の状態を一段と悪化させます。これが長期化すると、被害者はもちろん、(被害者が相当に”強力”な場合には)しつこい被害者からの苦情により加害者をも、私言うところの”音アレルギー”症状にしていくのではないかと考えます。

 マスコミの報道姿勢に関してもう一つ触れておくべきは「発表ジャーナリズム」です。これは官公庁などの発表に依存しがちな取材、報道を批判した言葉だそうですが、それは単なる批判ではなく、全くその通りであることを、私自身この問題に関わることにより明確に知ったからです。

 低周波音問題に関し汐見氏らは既に30年以上にもわたり訴え続けており、また最近では環境省の発表の度に、その不備を指摘する懇談を環境省としています。そして、記者会見も有るのですが、それが一般紙で正当に伝えられることはなく、当局の”発表もの”だけが一方的に報道されるだけです。これでは一般の人は当局の発表内容にある問題点を知ることなく、国は"適切な"対処をしていると思ってしまうでしょう。

 「発表ジャーナリズム」
の問題は、事この問題だけに関わらず、総体において、万が一当局の発表に対し批判的で”お気に召さない”内容を書けばその後の取材が少しは難しくなるであろう事は素人でも容易に察しが付きます。また、よしんば、批判的内容を付けたとしても、デスクなどからその記事の裏付けを求められた時、明解に答えるには記者に相当のお勉強が必要なわけで、詰まるところは、依って来たるところは政府の「発表された文書」というところになってしまうのでしょう。

 この姿勢は単にこの問題に限ったことでなく昨今では全ての問題においても同様なことが言えるでしょう。問題の本質に近づこうと思ったら大マスコミの報道、特にTVや新聞の報道は単なる「目次」くらいに考え、実体を知ろうとすれば多くの可能性を推理しなくてはならないでしょう。


B日本人の国民性

 最近では必ずしもそうとは言えないとは思うのですが、日本人は元来世間体を重んじ、"事を荒立てる"事を極端に嫌う民族ではないかと思います。裁判なんてのは、その最たるモノで、する方も、される方も出来れば避けたがります。昔はそれが前提で、お互いに”問題”を起こさないようにしてきました。

 しかし、その結果、昨今では、むしろ我が侭勝手放題にしている人間の方がヤリ得で暮らしやすいような世の中になり、おとなしい「良識ある人間」がバカを見る結果となっているような場合が多々あります。

 そんなことを考えると、「良識ある人間」とまで行かなくても、極々「普通」の人間が、事件を起こすとか、(民事)裁判に訴えるように事を荒立てる場合は、基本的には、既にそうするしか仕方ない状況になってからです。しかし、現実的には既にこの時点で「良識ある人間」の”良識”もかなり失われて居るであろうことは容易に想像できます。従って、裁判にせず最終解決法に至った場合「騒音発生源管理者」に対する
「最終形態」に至ってしまう場合が時としてあるということでしょう。

 しかし、多くの騒音被害者は、何とか、その一線を越えずに、できれば、穏便に、遠回りに、できれば世間体よく、"合法的"に問題を解決したいと考えます(これは私の経験からですが…)。その点ではまだまだ実に素晴らしい国民性であると思います。

 しかし、
実はこの「穏便さを重んじる我慢強い国民性」が、騒音問題においては、自らの不幸を一層悲劇的にする決定的な個人的要因の一つでしょう


C「風土病」的要素

 特に、この低周波音問題というのは、どうも日本という国のみに存在する、極めて「風土病」的要素を持つのではないかというのが私が到った結論の一つです。詳しくは拙文「低周波公害は日本の”風土公害”か」をご覧頂きたいのですが、日本の”専門家”達にありがちな、そこでの”話し”を国内に於いては”国際標準”と転換し易い国際会議と称する場においても、日本に於けるような低周波騒音被害(比較的低い音圧の低周波音が人間の健康を損なう)の問題提起or問題報告が他国から全くなされていないことです。

 そして、その傍証の一つに日本に於いてこれまで低周波騒音に関する幾つかの裁判が展開されたにも関わらず、あれだけ、何でも裁判沙汰にしてしまう米国に於いてもこの種の問題が何ら裁判沙汰になっていないことです。これは単純に米国にはこういった問題は無いと考えたほうが合理的なのかも知れません。

 こうした状況は本来ならば”日本の低周波音専門家”は低周波騒音被害研究の場としては、独占的に研究成果を上げ得る可能性が有る、最高に”美味しい”状況に有るはずではないかと思うのですが、
現実は全くその逆で、国内的にも「世界にも無い問題なのだから日本にあるはずがない」という似非専門家だけならまだしも、政府・”専門家”なども「問題の黙殺」という点で一致団結していることです。

 低周波音被害者は良識有る「専門家」の出現を一日千秋の思いで待っています。


D法規制の甘さ

  最後に、当然のことながら低周波音問題に限らず一般の騒音問題においてもその解決を難しくしている決定的な要因は、詰まるところ法規制の甘さです。騒音そのものはもちろん「公害」とされるものは一応、法的に規制されています。しかしながら、余程大きな音(いわゆる「受忍限度」を超える)でもない限り、法的に罰せられることはありませんし、例え規制値を超えても、その規制自体が非常に甘いのですが、その甘さそのものの一例が文末に記してありますが、ここではその理由をまとめ的に考えてみます。
 
 @騒音そのものが極めて感覚的な面を持ち、個人差がある。→一律に規制しても実は意味がない。
 A被害が「点状」「面状」あるいは地域的にしか存在しない。→飛行場、鉄道、道路などを別として団結化が難しい。
 B音は消えてしまい証拠が残らない。→第三者への証明が難しい。
 C決定的なことは、化学物質被害のように人体に明確な障害をもたらさない。→騒音では人は死なない。
 D騒音のキツイ規制は日本の経済活動を停滞させるという一見経済的言い訳。
←低周波音においてこの要因が非常に大きい。

 と言ったところでしょうか。


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