4222 汐見氏の著作・変遷

 汐見氏は参照値が出る以前からも「低周波音の感覚閾値(2003/9)などにおいて、閾値で被害者の存在を否定する足きりするとことを糾弾されていたが、その論調が大きく変わり環境省をハッキリ攻撃しはじめたのは、平成16年(20046月の「低周波音問題対応の手引書」の中で参照値が「低周波音問題対応のための「評価指針」」として採用され、現実の行政の中で閾値に替わり「参照値」による低周波音苦情者(=被害者)の切り捨てが明確になった2004/7「低周波音症候群を語る 環境省「手引書」の迷妄」であり、2005/11「わかったら地獄 低周波音被害者の悲惨」である。これらは後に本になる予定で冊子の形で私にも提供されたモノをネットに載せたモノだ

 その後、そこまでの低周波音被害の集大成として出版されたのが2006/12低周波音症候群―「聞こえない騒音」の被害を問うである。その間、「参照値」の壁を打ち破るべく構想されたのが、低周波音頭蓋骨貫通説であり、"低周波音左脳受容説"であるのだが、これらは、汐見氏はどう考えてみえるか解らないが、低周波音症候群の機序を究明するための推論、試論であり、現段階では証明できるモノではなく、低周波音問題の本質の傍証の試みであり、敢えて言えば主流派への目眩ましではないかと私は考えている。

 汐見説の正当性は置いても、何よりも低周波音問題における低周波音と健康被害との因果関係は環境省でも依然検討中であるとは言え、その本音はあくまで事実を否定する方向であることは言うまでもなかろうが、そのため主流派は、基本的スタンスとして、今的に言えば「原発絶対安全論」(=活断層など危険因子を排除し、危険の想定をせず、想定外のことは起きない)の様なモノであろう。

即ち、万が一のことさえ考えないようにしてきた、原発ムラの諸子と根は同じ専門家集団が群れあう専門ムラ社会であり、謂わば、日本政府が、尖閣諸島については「日本固有の領土であり、領有権問題は存在しない」という公式的な立場と同じように、「低周波音問題はそもそも存在しない」と言うスタンスであるから、現実しての苦情者をあくまで、如何に容易に、統一的に、画一的に処理するかに集約されて居るとしか考えられないわけで、汐見氏のように現実の被害の存在を前に絶えることなく、「原因から結果」への発生の機序を考える必要性がない、と言うより、低周波音ムラにおいては、そうした試みは無意味どころか自分の存在を危うくする可能性が大であり、当然ながらそうした動きをするムラビトは居ない訳だ。


 さて、もし、汐見氏に弱点があるとすれば、それは氏は「低周波音が聞こえない」と言うことであるかもしれない。が、それは殺人をしたことが無い裁判官に殺人者の気持ちが解るのかとか、「病気の苦しみを知らない医者にその痛み、苦しみが本当に解るか」というようなモノであるが、後者に於いては最近は医師自身がガンになり患者の苦しみを知る医師が増えてきたことは、ある意味、患者にとってはありがたいことである。

 で、汐見氏がもし逆に、低周波音を感知する人であったら、今までの多くの被害現場に立ち会うことにより低周波音感知者になり、ひいては低周波音被害者になっていた可能性があり、そうした状況での発言は、全て低周波音憎しの低周波音被害者の戯言とされてしまう可能性さえ有るのである。そうした可能性が全くないと言うことは文字通り有り難いことなのであろう。

 そして、氏は被害者を前にし、常に「現場の研究者」であり、誤解を恐れて言ってしまえば、氏の主張は日々刻々変化していると言っても言いすぎではないのでは無かろうか。こうした変化は文筆業を生業としている人でもない限り、自らの意見、思いを発表する、ましてや身銭を切って出版する際には、そもそも自らの「思いが体を成した」時なのである。それに至る過程の原初は人により異なるであろうが、それには長い経験と日々の絶えざる考察の中で、フトした直感からの閃きではないかと私は考える。

 従って、氏の著作というより文章は言ってみれば、完全自前の上書き可能の「ドキュメントファイル」であり、それがその時々に上書きされ、大きな変化が成されたときにはヴァージョンアップとして、「出版」と言う形を採るのだ、と私はこれまでの氏の著作を見て考えている。氏の論の変遷こそが現在も未解決とされるこの問題の最前線に位置する氏の思いであるのではないか。従って、氏の著作の枝葉末節の言葉尻を捉えて揚げ足取りをすることはほとんど意味を成さない。それを一々訂正が要るなどと考えるのは「条文」の一語一句を読み込むのを生業とする司法関係者的性(さが)なのではなかろうか。


4.2.3 汐見説による批判を踏まえて、主流派の見解の検討

4231 「低周波音による身体的影響は本人が低周波音を感知している場合に限って生ずる」という見解は正当か

 この見解は厳密には正当ではない。被害者的立場としては、その騒音が夜間の静かな時間に特定時間続かず、尚かつ、そのため騒音源が特定できないような場合は、「何だか解らないが」と言う状況が続き、所謂潜伏期に入り、(これは「感知」と言っていいのかも知れない)、後にそれが「認知」となる場合が多い。即ち、騒音源が解った場合には自分が聞いていた騒音の脈(=音の質、音色、うなり)がハッキリ感知出来るようになるので必ずしも「(明確に)感知している場合に限って」とは言いきれない。更には一度認知するとそれまで聞こえなかった様な音まで聞こえる(と言うべきか聞こえるような気がする)ようになる。これがストレス説となろう。

 著者は「これは医学の問題なので」としているが、「医学の問題」と言うのは一応「医学的知見」などと解釈すると、そもそも知見なるモノは本来的に定義や解釈が先に有るわけではなく、多くの個々人の事例の蓄積の集成から導き出される概要的見解が仮定として出され、更にそれを裏付けるような実験とか統計的データが付加されそれが所謂知見なるモノとして確立されるのであろう。

 だが、この問題に関しては、短期暴露による実験が実施され、データが集計、分析され、低周波音被害に対する「参照値」という形で、科学的に創られた工学的知見が有るに過ぎない。一方、多くの個々人の被害事例は明らかに長期暴露であるのだが、その蓄積の集成から導き出される汐見氏の見解は、事例が少ないとか、追試が出来ないとかで、“参照値的”には、例外があまりに多く存在するのだが、現在の所採用されていない。

 その結果、当然ながら行政だけでなく、司法の場でも医学的、科学的知見はなく、因果関係は明らかでないとされている。そうした状況にも拘わらず裁定、裁判に際して原告の多くが、汐見氏の「意見書」を求めるのは、何故原告が裁定、裁判に於いて主流派の「意見書」等を要請しないのか考えてみればその是非は明白であろう。他に誰一人として、低周波音被害と言う被害内容を説明できず、被害者が存在することを代弁してくれていないからであろう。

4231d 飛行機内で低周波音被害が発生しないこと

 この点については私も非常に不思議であった。低周波音にやられて一般生活での数十dBの低周波音が堪らないとなれば、閉じこめられた飛行機内での騒音は絶対絶えられるはずがなく、最早飛行機での旅行に行けるはずはないと思ったからである。ご存じの方はご存じのように飛行中の飛行機内の「ゴー」と言う音は並大抵のモノではなく「100-110dB」だそうで、これが問題ではないのであるから理工学的科学的な考えでは納得できない。
 
 この点について似たようなことを私が考えたのが、
音と脳 序論 11.アウェアネス=気付き」であるが、その結論は、「他人にくすぐられるとくすぐったいと感じるが自分でくすぐっても感じない(これは刺激と脳の認識に)ディレイ(遅延)があると(くすぐったいと)感じる。その時小脳で興奮が起こる。」(「脳はここまで解明された」 合原一幸/編著)という記述であった。

 これは目から鱗で、と言うのは、私は大型輸送車のアイドリングの低周波騒音でヤラレタ、その後しばらくは普通の自動車のアイドリングでも堪らなくなったのだが、“困ったことに”自分が乗った車のアイドリング音は苦にならない。もちろん周波数、音圧、状況の違いは当然なのだが、低周波音問題に関して全く知らない人に説明するのには非常に難儀で、「自分が乗っている車が出しているアイドリング音は苦しくないのに、他人のアイドリングに文句言うなんておかしいジャン。」と反論されると、ウーンこれは確かに自分勝手なー、と思うしかなかった。しかし、合原氏の論で行けば、脳の当然の働きで簡単に説明が付くことだった。

 要はその音(=刺激)に対して「(発生の)予測があるかないか」と言うことで、自からが自らの脳に刺激の予定を与えておけば、脳内で合意ができ脳は混乱しないと言うことである。

 この考えを敷衍してみると、学習能力のある「お利口な脳」は繰り返しと時間の経過により賢くも学習し、「例のいつもの嫌な音がそろそろ始まるはずだ」と思っただけで小脳では興奮が起こり、実際に起きるまで脳はスタンバイ状態が持続され、それが長くなるとストレスとなるのでないかと私は考えた。エサがもらえるわけではないパブロフの犬、と言うよりやはり拷問でしょう。

 私の経験として、「あのアイドリングが始まる」と思っている時の苦しさは、実際に始まった時ももちろん苦しいのだが、それよりも心理的には苦しかった記憶がある。これらの緊張感(=小脳の興奮)が脳の平生とのアンバランス状態を引き起こし、更にその緊張が長きにわたると避けようのないストレスとなり、何が何だか解らない自律神経失調症的症状となるのではなかろうか。前にも述べたと思うのだが、自律神経失調症と言うのは現在の医学的知見では原因不明の症状を一括りにしただけで決して病名ではないそうである。

 この「脳の(異常状態への)スタンバイ状態」と「その持続」こそが大いなる緊張感を伴いそれがストレスとなり、その我慢閾値を越えるのが常態となると、何れ鬱になっていくのではなかろうか。これには時間の長短や頻度、もちろん個人差の問題も有ろうが、こうした状態が問題となる要因はタダ単にその状態が「心理的に嫌」かどうかであろうと考えた。

パイロットに限らず、仕事中の低周波音がさほど問題にならないのは限られた時間内の職業的緊張感は終業時には全てクリアされるという条件が付いている訳で、それが緊張の持続を可能にしているのであろう。従って、緊張時間、能力閾値など様々な閾値を越える長期緊張が続けば、例えば、過度の残業などが続けば、肉体的にはもちろん精神的に追い込まれ鬱から自殺ともなるのであろう。脳は何より自由を求めるようだ。
 
 パイロットなどの定期的就業が問題にならないかと言えば、やはりそうではなく、所謂、低周波音症候群とはならない様だが、これまでも紹介しているように、極度の騒音下で長期間就業することにより、VAO(Vibroacoustic disease(VAD振動音響病)になるとの研究成果もあるのだが、これは世界の低周波音主流派からハバにされているだけでなく、日本でも日本の所謂低周波音被害(もっと低い音圧で被害者となる)からすれば、音圧が強すぎる極端な例とされ低周波音被害の外因説を唱える汐見氏も問題にしていない。個人的には、極端な事例を見ることによりその事象の典型を知ることが出来るなどと考えるのですが、どうなのであろうか。


 その後、低周波音被害関係者の方から連絡があり、「新幹線、飛行機など低周波音圧が高い場所では症状が重篤な低周波音被害者にとってはやはり苦しい」とのことです。私は随分良くなってからのことで、本当に非道い時期は旅行というか、移動などそもそも考えていなかったのでこうした言い方になったのですが、旅行ができない程は後遺症は残らないと考えていただいた方がよろしいでしょう。  


4232 汐見説はストレス説についてどう考えているか

 著者に依れば、汐見氏は「(低周波音症候群は)少なくとも原理的には、解決は極めて容易です。」として、(不可抗力とされそうな)ストレス説を採らないと言う見解は、現在の自殺原因の多くが直前の原因がストレスに分類されてはいるが、それ以前の原因がそれなりに解っていてもそれが「不可抗力」となれば現在の自殺を無くそう、減らそうという試みは無為と言うことになってしまう。ストレスもその原因が除去されればそれなりに癒える。従って、著者の「(汐見氏は)低周波音による被害の原因がストレスであると把握することと、低周波音被害への対処の問題を混同しているのではないか」という見解には同意できる。

4233
「感覚閾値や参照値は、人の感覚を正確に示しておらず、誤っている」と考えるべきか

「人の感覚閾値」の全数調査は困難な訳だから仕方ない次次善の策とでもするしかなく、「(感覚閾値や参照値は)必ずしも正確ではないが、必ずしも誤っているとまでは言えない。」という何ともマー、どこかの判決みたいなのが私の見解。

勿論実験室での調査は意味がないと随分喚いてきたが、それはこれにより算出した「参照値」を金科玉条として司法は環境省が使ってはいけないよとしている大いなる根拠として、行政はモロ低周波音被害苦情者の「足きり」に使用しているからであり、解釈と使用法が誤っていると言うことである。

 そもそも参照値は末端行政が便利に利用しているような低周波音苦情者の門前払い=足きり用に創られたはずではなく、その原因が低周波音であるかどうかの可能性を判断するはずのモノであったはずで、しかもこれにも、感覚閾値同様±510dB程度の誤差を認めているにも拘わらずに、ズバリの数字で微妙な数字を足きりしたとすればそれは明らかな“参照値の権限逸脱の越権使用”であり悪用である。こうした使用法がまかり通ってしまったのは、当初の実際の運用時にその使い方が十二分にされなかったからである。その全責任は環境省にある。しかし、現状に於ける行政窓口が利用している様に“援用的”に参照値を使わなかったとしたら「この数値に一体全体どんな意味があるのだ」と言う行政からの声も聞こえて来ないわけではない。環境省が口ばかりで、実際には末端行政での足きり用に使用されるであろう事を暗黙的に意図しているのではと勘繰りたくなるのも無理からぬ事と思っていただきたい。

 これと同様のことが予想されるのが、風力発電に関し2012101日から施行する予定になっている環境アセスメントだ。末端行政は便利な物差しを国に期待している。

 と言うことで、感覚閾値や参照値はそれなりの科学的方法を採っているし、実際の被害者の苦情閾値と余りに大きく離れている訳ではないとすれば、必ずしも「誤っている」とは考えるべきではない。が、現実には「参照値」に届かない苦情者が多いと聞く。「例外のない規則はない」が、余りに例外が多くては、それは規則ではなかろう。

4234 「低周波音に対する鋭敏度には個人差があるのだから、本人の感覚を基準にすべきであり、感覚閾値や参照値を基準にすべきではない」と考えるべきか

 「参照値」以前の問題として、低周波音被害に遭うかどうかの確率は同じ状況でも非常に「ヤラレル」確率が低く、被害者は家族に一人と言う状況が少なくなく、家族の理解さえも得られない場合も多かった。が、昨今の風車騒音被害の発生により、条件さえ整えば、それなりに被害者が発生することが事実となってきた。

 因みに、国民総花粉症と言われながらも「患者は全国民の15%〜20がそうであるとされているようで。」高い確率とは言え、花粉症にならない人の方が多いわけで、因みに我が家(夫婦子ども3人)で花粉症は子どもの2人であり、確率的にはかなり高い事になる。要するに単に低周波音に限らず、著者が言う鋭敏度には殆ど全てに於いて個人差が有るのが当然である。それを置いて、著者が提唱する「、むしろ、参照値などは決めないで、体感調査一本で判断する。つまり本人に低周波音が聞こえるかどうか(あるいは感じられているかどうか)という基準だけで判断するのが適切であると思う。」つまり「本人の感覚を基準にすべき」は素晴らしい見解ではあるが極論である。

現実論として、@同一場所に於いても時間により聞こえが異なりA個人差を認めると当然ながら同じ被害でも被害者によっても聞こえが異なりB挙げ句は、“審判役”の行政に於ける素人"専門家"がどうやって低周波音被害と言うよりそもそも低周波音の存在を認定できるであろうか。更には“被害認定の立会”が深夜、早朝の場合誰が第三者的に立ち会うのかなど具体性がない。ましてやこうした事実に完全無知なる司法関係者が融通の有りすぎる規範を理解できようはずがない。こうした点から一応の正しさらしさを有する感覚閾値や参照値者を無視して良いと考えることは出来ない。

 現実案としてはデジタル的数字による線引きでなく、相当の幅を持たせた範囲内での一応の線引きをひとまずはすべきであろう。@そうしたグラフに少なくとも上下で20dB程度の幅を持たせ、尚かつ、A現実環境(住環境の静かさ、昼夜の時間)などを考慮し、B体感的に「聞こえるかも知れない」と第三者的に判断させる、C…、くらいしかないのではなかろうか。

こうした妥協案的なモノが無くては、判例が大好きな「受忍限度」が、全て被害者の「言いなりで良い」と言うことになってしまい、我慢のない私などはバンバン裁判したくなってしまうのでは無かろう。筆者は「受忍限度論」に関しても多くの頁を割いているが、それはまた別の機会に。


次へ